元禄期の本殿やそれ以来の湯立ての釡、1月座衆によるオコナイ行事
[住所]大阪府河内長野市加賀田135
[電話]0721-64-1753

加賀田神社(かがたじんじゃ)は、大阪府河内長野市加賀田にある神社。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。『大阪府全志』巻之四では「単に11月卯日に宇佐八幡を勧請したり」とあるのみ。

室町時代の文明11年(1480年)、社殿を再建したという。慶長4年(1599年)の絵図には境内の様子が描かれている。

それによれば、本殿・拝殿・経堂・玉垣、その外の境内には泉福寺があって、奥ノ坊・北ノ坊・南の坊・宮の坊・薬師堂があるという大伽藍だった。

しかし、文禄3年(1595年)、豊臣秀吉の検地によって社領が没収され、無禄になったために坊舎は漸次頽廃して、わずかに本殿・拝殿・末社・神具庫・薬師堂だけになったという。

また、当社では江戸時代前期の承応3年(1654年)の棟札が保管されている。元禄16年(1703年)、氏子で堺に住んでいた谷善右衛門が私財を投じて社殿を改修したのが現存の本殿。

三間社流造、梁間二間、正面三間にわたって一間の総向拝をつけ、屋根は銅板葺。正面では浜床を設け、木階五級を据え、擬宝珠柱をたて、登高欄で縁に昇る。

縁は正・側面三方に榑縁を張り、側面では奥に脇障子をたてる。向拝柱は面取角柱で、三間にわたり大虹梁を架して両端を象鼻とし、柱上で連三斗と組とする他は枠肘木を組み、中備に蟇股を配する。

この本殿は現在、市指定文化財で、平成28年(2016年)9月、装飾絵画の修復工事が完成、創建当時の色鮮やかな装飾絵画が蘇り美しい姿を見る事ができるようになった。

幕末の嘉永6年(1853年)、火災で拝殿・薬師堂・中門・玉垣が焼失し、安政5年(1858年)になって再建し、現存の社殿が構成された。

それに先立ち、火災の翌年となる嘉永7年(1854年)に神輿が再建され、現存する。

御祭神は、誉田別尊(応神天皇)、足仲彦尊(仲哀天皇)、息長足媛尊(神功皇后)。

明治41年(1908年)、唐久谷村社の和佐神社(素盞嗚命高龗神)、石仏村の上山八幡宮(誉田社別命)と天神さん(菅原道真)を合祀した。

当社には勧請当時から氏子のなかに「座衆」という組織があって、社寺の祭典を取りしきってきた。代々血脈を重んじ、男子相続と決められ、男子がない家は「座株」を失う。

座衆の記録は慶安元年(1648年)からあり、記録によると、正月8日が伝統の祭典日だったが、現在では毎年正月3日に祭典を奉仕している。

もとは修正会と呼ばれ、現在も仏像の形をした御神体を拝む。

祭事後、座衆は東座と西座に別れて、加賀田川を境に着座し、特別に作った三重の鏡餅を転がして、ゴン杖と呼ばれる60センチのうるしの木で叩いて相手方に転がす。

この特別な行事は現在、「加賀田神社のオコナイ」として、市の文化財に指定されている。

1月10日には、本殿向かって右側の小宮に祀られる恵比寿神の例祭である戎祭りがあり、餅撒きが恒例になっている。

他に、大晦日に注連縄掛けが催行され、元旦から3日までは参拝者の玉串拝礼を拝殿で受け付けている。

秋には湯立神事があり、元禄の再建時に作成されたとされる釡を使用して、執行される。

【ご利益】
厄災除け、安産、諸願成就、学業・受験合格(公式HP
加賀田神社 大阪府河内長野市加賀田
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