葛城神社・高龗神社、藩主寄進の石の宝殿、葛城踊り
[住所]大阪府岸和田市塔原町、和泉葛城山
[電話]-
八大竜王社(はちだいりゅうおうしゃ)は、大阪府岸和田市塔原町、和泉葛城山の山頂近くにある神社。葛城神社とも呼ばれるが、正式には高龗神社(たかおがみじんじゃ)。御朱印の有無は不明。
和泉葛城山(いずみかつらぎさん)は、大阪府と和歌山県の境にある、標高858メートルの山。葛城連峰の中心として昔から親しまれている。
和泉山脈から金剛山地の120キロにわたる逆L字型をなす「金剛・和泉葛城山系」を構成する山で、大阪府と奈良県の境にある大和葛城山もそれに連なる。
伝承によれば、一言主命が山頂を極めて以来、第21代雄略天皇が狩りを行った。『古事記』には一言主命と雄略天皇の邂逅の話を載せている。大和葛城山にも関連伝承が残る。
高龗大神とは黒龍大神のことで、闇龗大神(白龍大神)と対をなす。
雄略天皇21年、男大迹王(後の第26代継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行った。
その時、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を願って、この2柱を奉斎したという。福井県福井市毛矢には黒龍神社がある。
その後、役行者(役小角)が30年もの間、修行に明け暮れて霊術を体得したと云われている。以来、葛城修験の一霊場として、また、雨乞いの神として信仰を集めた。
江戸時代には歴代岸和田藩主が旱魃の年にたびたび当社に祈願したという。
江戸時代中期の享保年間(1716年-1735年)、岸和田藩主岡部氏が山頂で狩りを行った際、白鹿を射止めたところ、天候が急変し、暗雲が立ちこめた。
地面も裂けんばかりの雷雨豪雨のために山が揺れ主従一行はすぐに山を下りて民家に避難した。なお、享保年間の藩主は、3代長泰・4代長敬・5代長著の3人がいる。
一難去って、岡部氏は祟りを怖れて、ただちに巨石によって社殿を造営し、葛城一言主命、八大龍王を祀って天の怒りを鎮めたという。
その際の石造の宝殿と鳥居が現存しており、そのため「石の宝殿社」とも呼ばれる。宝殿は玉垣とともに、「葛城山石宝殿 附玉垣」として市の文化財に指定されている。
そのすぐ南の紀州側に背中を合わせるように坐しているのが、当社そのもので、八大龍王の扁額のある鳥居がある。
類似した造りの石造の宝殿が鎮座しているが、これは修験道の「葛城二十八宿」のうちの「龍の宿」における「峰の竜王」を祀ったものだという。
山麓の塔原・相川・蕎原・木積・河合の5ヶ村が当社の氏子として、維持管理や神事を担当し、雨乞いや降雨に感謝する雨礼のために奉納した葛城踊りを伝える。
葛城踊りは、一時廃絶していたものの、昭和30年(1955年)、塔原町によって復興され、今も毎年8月14日、塔原町の弥勒寺境内にて催されている。
葛城踊りは現在、府無形民俗文化財に指定され、また、当社付近のブナ林は国の天然記念物に指定されている。
ブナの天然林は山頂北側の斜面に広がっている。ブナは本来冷涼な気候帯で生育するが、ここのブナ林は生育の南限に近く、さらに当社の社有林として伐採を禁じられていた。
そのため、その存在が奇跡的とも称されている。また、山頂には展望台があり、そこから大阪平野・紀の川市山麓が一望できる。
夜になると関西国際空港が輝いて見える。また、天体観測などにも適していると言われている。
ハイキングコースも整備されていて、岸和田市には二つのハイキングコースが用意されている。牛滝山(うしたきさん)から登る「お地蔵さんコース」、塔原地区から登る「ブナ林コース」。
貝塚市蕎原から登ることも可能。車でのアクセスルートは充実しており、山頂付近まで乗り入れることができる。山頂付近には駐車場と売店がある。
【ご利益】
諸願成就、五穀豊穣、天候・祈雨、リフレッシュ、身体壮健、健康長寿
【関連記事】
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
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八大竜王社(はちだいりゅうおうしゃ)は、大阪府岸和田市塔原町、和泉葛城山の山頂近くにある神社。葛城神社とも呼ばれるが、正式には高龗神社(たかおがみじんじゃ)。御朱印の有無は不明。
和泉葛城山(いずみかつらぎさん)は、大阪府と和歌山県の境にある、標高858メートルの山。葛城連峰の中心として昔から親しまれている。
和泉山脈から金剛山地の120キロにわたる逆L字型をなす「金剛・和泉葛城山系」を構成する山で、大阪府と奈良県の境にある大和葛城山もそれに連なる。
伝承によれば、一言主命が山頂を極めて以来、第21代雄略天皇が狩りを行った。『古事記』には一言主命と雄略天皇の邂逅の話を載せている。大和葛城山にも関連伝承が残る。
高龗大神とは黒龍大神のことで、闇龗大神(白龍大神)と対をなす。
雄略天皇21年、男大迹王(後の第26代継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行った。
その時、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を願って、この2柱を奉斎したという。福井県福井市毛矢には黒龍神社がある。
その後、役行者(役小角)が30年もの間、修行に明け暮れて霊術を体得したと云われている。以来、葛城修験の一霊場として、また、雨乞いの神として信仰を集めた。
江戸時代には歴代岸和田藩主が旱魃の年にたびたび当社に祈願したという。
江戸時代中期の享保年間(1716年-1735年)、岸和田藩主岡部氏が山頂で狩りを行った際、白鹿を射止めたところ、天候が急変し、暗雲が立ちこめた。
地面も裂けんばかりの雷雨豪雨のために山が揺れ主従一行はすぐに山を下りて民家に避難した。なお、享保年間の藩主は、3代長泰・4代長敬・5代長著の3人がいる。
一難去って、岡部氏は祟りを怖れて、ただちに巨石によって社殿を造営し、葛城一言主命、八大龍王を祀って天の怒りを鎮めたという。
その際の石造の宝殿と鳥居が現存しており、そのため「石の宝殿社」とも呼ばれる。宝殿は玉垣とともに、「葛城山石宝殿 附玉垣」として市の文化財に指定されている。
そのすぐ南の紀州側に背中を合わせるように坐しているのが、当社そのもので、八大龍王の扁額のある鳥居がある。
類似した造りの石造の宝殿が鎮座しているが、これは修験道の「葛城二十八宿」のうちの「龍の宿」における「峰の竜王」を祀ったものだという。
山麓の塔原・相川・蕎原・木積・河合の5ヶ村が当社の氏子として、維持管理や神事を担当し、雨乞いや降雨に感謝する雨礼のために奉納した葛城踊りを伝える。
葛城踊りは、一時廃絶していたものの、昭和30年(1955年)、塔原町によって復興され、今も毎年8月14日、塔原町の弥勒寺境内にて催されている。
葛城踊りは現在、府無形民俗文化財に指定され、また、当社付近のブナ林は国の天然記念物に指定されている。
ブナの天然林は山頂北側の斜面に広がっている。ブナは本来冷涼な気候帯で生育するが、ここのブナ林は生育の南限に近く、さらに当社の社有林として伐採を禁じられていた。
そのため、その存在が奇跡的とも称されている。また、山頂には展望台があり、そこから大阪平野・紀の川市山麓が一望できる。
夜になると関西国際空港が輝いて見える。また、天体観測などにも適していると言われている。
ハイキングコースも整備されていて、岸和田市には二つのハイキングコースが用意されている。牛滝山(うしたきさん)から登る「お地蔵さんコース」、塔原地区から登る「ブナ林コース」。
貝塚市蕎原から登ることも可能。車でのアクセスルートは充実しており、山頂付近まで乗り入れることができる。山頂付近には駐車場と売店がある。
【ご利益】
諸願成就、五穀豊穣、天候・祈雨、リフレッシュ、身体壮健、健康長寿
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