岸和田だんじり祭の発祥の地、だんじり「城入り」のメイン会場
[住所]大阪府岸和田市岸城町30-3
[電話]-
三の丸神社(さんのまるじんじゃ)は、大阪府岸和田市岸城町にある神社。地元では「さのまるさん」と親しまれている。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、南北朝時代の延元元年(1336年)、楠木正成の一族である和田正儀が岸和田城(岸和田古城)の守護のため城中に創建したとされる。
なお、この和田正儀を正成の子である楠木正儀と同一人物と見る説もあるが、延元元年には楠木正儀はまだ約6歳であり、別人説もある。
岸和田城は15世紀中頃に古城から新城(現在地)に移されたとされているが、当社が現在地に遷座したのは、江戸時代前期の寛永17年(1640年)の岡部氏岸和田入封以降のこと。
元禄14年(1701年)には岸和田藩主岡部氏3代の岡部長泰が伏見稲荷大社から倉稲魂神・瓊々杵尊・伊弉冉尊を勧請した。そのため、三の丸稲荷とも。
そしてその3年後の宝永元年(1704年)に稲荷祭が行なわれた。この稲荷祭は、岸和田藩も参加した大和川付け替え工事の竣工祝いと重なったことから、盛大に催された。
これが現在の岸和田だんじり祭の原型とも伝えられている。そのため、当社は岸和田だんじり祭の発祥の地とも呼ばれる。
以降も9月27日に稲荷祭が行われ、各町の地車(だんじり)が神社太鼓を打ち鳴らし、だんじりの「城入り」が行われた。
二の丸付近で「にわか」や「狂言」など各町自慢の「芸」が披露され、当社にお参りしてから、岸和田城の鎮守でもある神明社(牛頭天王社。現在の岸城神社)に参拝したとも伝わる。
以上の経緯から、現在では岸城神社で行なわれているだんじり祭での「宮入り」は、明治維新ごろまでは当社で行われていた。
明治以降、城内が寂れ、当社への宮入りが、百姓町の岸和田村の鎮守である岸城神社への宮入りのみになったという。
江戸時代後期の寛政9年(1797年)、岡部長備が天地無躬、四方安全を祈願して、黄籏大明神・猪尾権現を併せ祀った。
その時、佐藤英晴に宮司が命ぜられ、以来、明治維新後も引続き佐藤家が奉仕している。明治年間(1868年-1912年)、伏見稲荷よりさらに白髭大明神を勧請し合祀した。
昭和10年(1935年)、社殿の祭壇から金色の兜が発見された。いわゆる「今川義元の兜」である。
桶狭間の戦いの後、今川義元の家臣である岡部元信が義元の首級と引き換えに鳴海城を織田方に明け渡した際に合わせて引き渡されたものと伝わる。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、交通安全

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・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
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三の丸神社(さんのまるじんじゃ)は、大阪府岸和田市岸城町にある神社。地元では「さのまるさん」と親しまれている。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、南北朝時代の延元元年(1336年)、楠木正成の一族である和田正儀が岸和田城(岸和田古城)の守護のため城中に創建したとされる。
なお、この和田正儀を正成の子である楠木正儀と同一人物と見る説もあるが、延元元年には楠木正儀はまだ約6歳であり、別人説もある。
岸和田城は15世紀中頃に古城から新城(現在地)に移されたとされているが、当社が現在地に遷座したのは、江戸時代前期の寛永17年(1640年)の岡部氏岸和田入封以降のこと。
元禄14年(1701年)には岸和田藩主岡部氏3代の岡部長泰が伏見稲荷大社から倉稲魂神・瓊々杵尊・伊弉冉尊を勧請した。そのため、三の丸稲荷とも。
そしてその3年後の宝永元年(1704年)に稲荷祭が行なわれた。この稲荷祭は、岸和田藩も参加した大和川付け替え工事の竣工祝いと重なったことから、盛大に催された。
これが現在の岸和田だんじり祭の原型とも伝えられている。そのため、当社は岸和田だんじり祭の発祥の地とも呼ばれる。
以降も9月27日に稲荷祭が行われ、各町の地車(だんじり)が神社太鼓を打ち鳴らし、だんじりの「城入り」が行われた。
二の丸付近で「にわか」や「狂言」など各町自慢の「芸」が披露され、当社にお参りしてから、岸和田城の鎮守でもある神明社(牛頭天王社。現在の岸城神社)に参拝したとも伝わる。
以上の経緯から、現在では岸城神社で行なわれているだんじり祭での「宮入り」は、明治維新ごろまでは当社で行われていた。
明治以降、城内が寂れ、当社への宮入りが、百姓町の岸和田村の鎮守である岸城神社への宮入りのみになったという。
江戸時代後期の寛政9年(1797年)、岡部長備が天地無躬、四方安全を祈願して、黄籏大明神・猪尾権現を併せ祀った。
その時、佐藤英晴に宮司が命ぜられ、以来、明治維新後も引続き佐藤家が奉仕している。明治年間(1868年-1912年)、伏見稲荷よりさらに白髭大明神を勧請し合祀した。
昭和10年(1935年)、社殿の祭壇から金色の兜が発見された。いわゆる「今川義元の兜」である。
桶狭間の戦いの後、今川義元の家臣である岡部元信が義元の首級と引き換えに鳴海城を織田方に明け渡した際に合わせて引き渡されたものと伝わる。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、交通安全

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