紀氏の系譜、奈良期の紀船守など祀る、天然記念物の大楠、10月秋祭
[住所]大阪府泉南郡岬町淡輪4442
[電話]072-494-3333

船守神社(ふなもりじんじゃ)は、大阪府泉南郡岬町淡輪にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

創祀・創建年代は不詳。紀船守(きのふなもり)・紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)・五十瓊敷入彦命を御祭神としている。

紀船守は紀雄人の子で、授刀舎人(たちはきとねり)だった。奈良時代の天平宝字8年(764年)、恵美押勝の乱の際、押勝を射殺したとして勲功があったという。

紀朝臣の祖は武内宿禰とされるが、武内宿禰の子である紀角宿禰は紀ノ角とも称し、紀氏の祖である。

『日本書紀』には紀氏が半島攻略の海軍面での活躍が記されている。これらは紀氏の水軍が古代に活躍したことを物語るもの。

第15代応神天皇3年、百済の辰斯王が天皇に非礼で、紀角宿禰・石川宿禰木莵宿禰を遣わした。百済国は辰斯王を殺して陳謝。紀角宿禰らは阿花を王として帰国した。

第16代仁徳天皇41年、紀角宿禰を百済に遣わし、国境の分け方、郷土の産物を記録させた。この時百済の王族酒君が無礼だったので、紀角宿禰は百済王を責めた。

第21代雄略天皇9年、紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没。

紀小弓宿禰の子の紀大磐宿禰は父の死を聞いて新羅に向かったが、蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還した。

第23代顕宗天皇3年、紀生磐宿禰が任那をまたにかけて高句麗と通じ、三韓の王となろうとし、自らを神と称した。

第28代欽明天皇23年(562年)、新羅が任那諸国を滅ぼしたので、修復のために紀男麻呂宿禰が大将軍として派遣された。

このうち、紀小弓宿禰は泉州に葬られたと伝わる。紀氏の拠点は紀の国であるが、日根郡はそれに接しており、紀氏が移住していたとされる。

紀小弓宿禰から紀船守までは約300年とされ、この地田身輪の産土神として祀られ続けたと考えられている。

当社の東、淡輪駅の東に宇土古墳がある。明治維新までは紀小弓の古墳とされていたが、維新後は五十瓊敷入彦命の古墳とされ、宮内庁管轄となっている。いわゆる淡輪ニサンザイ古墳である。

明治5年(1872年)、村社に列し、明治40年(1907年)1月、神饌幣料帛供進社に指定された。境内は362坪で、本殿・拝殿・神饌所・舞臺・神輿舎などがある。

例祭はもとは9月9日。現在は10月14日・15日で、秋祭り。やぐらとも呼ばれるが、3台の地車(だんじり)が練り歩く壮観な祭。黒崎浜への神輿渡御は10月15日に行われる。

当社の本殿は、豊臣秀頼の命により、片桐且元が造営した桃山式の建築様式で、三間社流造、屋根は檜皮葺で、国の重要文化財に指定されている。

境内には、4本の幹が1本になった珍しい楠の大木がある。このクスノキは、樹齢800年を越えているとされ、目通り約7メートル、樹高約25メートル。

近くにある祓殿社(はらいどの)の大椋(ムクノキ)とともに府の天然記念物に指定されている。

境内社に、琴平神社(大物主神)、恵比須神社(事代主命)、稲荷神社(宇迦之御魂大神)、八幡神社(応神天皇)、大日神社(天照大神)がある。

【ご利益】
海上・交通安全、武運長久・勝運、リフレッシュ、一族・子孫繁栄
船守神社 大阪府泉南郡岬町淡輪
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