源平期の伝説、金運上昇の御神木「みいさん」、句碑、秋にだんじり
[住所]大阪府泉北郡忠岡町忠岡中1-26-3
[電話]0725-32-3628

忠岡神社(ただおかじんじゃ)は、大阪府泉北郡忠岡町忠岡中にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

泉大津市と岸和田市に挟まれ細長い形をした忠岡町は、日本で最も面積の小さい町である。当社は町内で宗教法人として登録されている唯一の神社。

当社の創建年代は不詳。旧忠岡村字道村に鎮座し、江戸時代には天神社と称していた。御祭神は菅原大神公。

明治5年(1872年)、菅原神社に改称して村社に列した。明治42年(1909年)、下記の各社を相殿に合祀した。

・旧忠岡村字南戸の村社八坂神社(牛頭天王社。素盞嗚命
・同字弁天の村社厳島神社(弁財天社。狭依毘売命
・同字春日の村社春日神社(春日大明神社。春日四神・栲幡千千姫命
・旧下馬瀬村字宮の前の村社馬瀬神社(天一神社。天御中主命

春日四神は、武甕槌命経津主命・比咩大神・天児屋根命

また、旧忠岡村字戎山の無格社事代主神社(戎神社。事代主命)を末社として境内に迎えた。忠岡戎神社、「えべっさん」である。

翌明治43年(1910年)、現社名に改称した。御神木の「みいさん」は、金運が上昇するご利益のある木、宝くじの当たる木として信仰されている。

例祭は10月10日。毎年この秋祭りには、町内のだんじり4台が宮入。当社境内は、祭りの雰囲気が最高潮に達する見物スポットにもなっている。

4月26日には春の大祭があり、その周辺において、境内に夜店が出る。8月第1金曜日が夏宮祭で、やはり夜店が出るという。

境内には、江戸時代後期の天保12年(1841年)、嘉永3年(1850年)、そして昭和43年(1968年)建立の三つの狛犬が安置されている。

また、俳誌『ホトトギス』を主宰した高濱虚子・年尾親子の句碑がある。さらに稲畑汀子氏の句碑が建立され、親子三代句碑として知られている。

南側の鳥居をくぐってすぐ左に「お牛様」があり、本殿の手前に「御神馬」があって、牛馬を祀る社としても知られている。

町名に関する伝説

平安時代末期の寿永2年(1183年)、平氏一門は木曾義仲に大敗を喫し、幼い安徳天皇を奉じて西国へと都落ちした。

平清盛の末弟(異母弟)で文武に誉れの高かった平忠度はこの時、再起を期すべくその子忠行とともに生まれ故郷の紀州熊野を目指した。

紀州街道を南下し泉州大津まで来た時、義仲四天王の一角今井兼平の子である兼滋率いる追っ手が背後に迫った。

父忠度を先に進ませた忠行は、大津川南岸の土手に陣取り、民家の戸板を楯代わりに並べて兼滋を迎え撃った。

忠行は奮戦するも深手を負い、当社の鎮座地付近で絶命した。享年18歳。

村人たちは哀れみ、小高くなった場所に忠行を葬り、菩提を弔った。これが「忠行の丘」と称ばれるようになり、いつしか約まって「忠岡」となったという。

また戸板の楯を並べた故事から、紀州街道に架かる橋は「楯並橋」と名づけられている。

ただし、平忠度は寿永3年(1184年)に一ノ谷の戦いで討死しており、都落ちの際も一門と同行していたものと見られ、熊野へ向かった、泉州に滞在したというのは確認できない。

平家を都から逐った翌年、木曾義仲は源頼朝軍によって討たれ、兼滋の父兼平も凄絶な最期を遂げた。

兼慈は近江伊吹山中に潜伏後、諸国を流れ、建久9年(1198年)、この忠岡の地に辿り着いてここで余生を過ごした。

子孫は安明氏を名乗り、忠岡を含む宇多荘の荘官を務めたと伝わる。9代目の兼孝は楠木正成に従って千早城の籠城戦に参加した。

正成の死後は剃髪して寺院を建立し、その菩提を弔ったという。それが今の忠岡南の永福寺であるという。

【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、武運長久・勝運、諸願成就(公式HP
忠岡神社 大阪府泉北郡忠岡町忠岡中
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