神功皇后の前に姿を現した神、住吉三神の本津宮、住吉神社の元宮
[住所]福岡県筑紫郡那珂川町仲3-7-8
[電話]092-952-2152
現人神社(あらひとじんじゃ)は、福岡県筑紫郡那珂川町仲にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀年代は不詳。創祀は神代とも。当宮の徒歩20分ほどの所に裂田溝(さくたのうなで)がある。現在は裂田神社があり、神功皇后を祀っている。
裂田溝については、『日本書紀』神功皇后紀に記載がある。神功皇后が渡韓にあたり、神の教えを受けたとされる地。
神功皇后の三韓征伐の際、これを幇助したのが底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神であり、当社の主祭神である。
遠征から帰還した神功皇后は神恩に感謝し、神が現世に姿を現したことから「現人神」と称し、竹内宿禰を遣わして奉斎させた。
竹内宿禰は、神田に水を引き、五穀豊穣を祈請して、現人大明神の尊号を授け、兵士に流鏑馬と相撲を奉納させ、神慮を慰められたと伝えられる。
霊験あらたかな現人神の和魂は、神功皇后が大和へ帰還した際、眞住吉之国(住みよい国)と仰いだ摂津の地にも奉斎されたことにより、住吉三神とも称されるようになった。
つまり、現在の住吉大社である。また、当社は福岡の住吉宮にも御分霊したとされ、住吉三神を祀る全国2000社あまりの、住吉三神の本津宮にあたるという。
分かりやすく言えば、全国の住吉神社の元宮、という位置付けになるという。現人大明神の尊号を授けられた後、藤原朝臣佐伯宿禰が当社の祀官を務めるようになった。
平安時代末期の寿永年間(1182年-1184年)、太宰少弐原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より、当社は岩戸郷23ヶ村、現在の那珂川町の総社として崇敬された。
その後も神領・神田など多くの寄進があり、祭祀は原田家が執り行い、社人も30人以上いたともされる。官幣も捧げられたと伝わる。
しかし天正14年(1586年)、高橋紹運の治政下、島津軍との戦乱のため、当社も戦火を蒙り、社殿・神宝・古文書・縁起に至るまで悉く焼失した。
社人30人あまりも戦乱に命を落とし、佐伯刑部の一子、当時7歳だった松千代がただ1人生き残り、後に祀官を継ぎ、現在に至る。
江戸時代になり、元禄年間(1688年-1704年)、黒田靭負重実が当地を統轄、村人による復興機運が高まり、正徳4年(1715年)、現在の神殿が再建された。
現在、御神木である大きな楠が清らかなムードを演出する境内には、この時に建てられた町内最古の鳥居があり、町の文化財に指定されている。
江戸時代中期の天明7年(1786年)、黒田斎昭が参詣、石灯籠一対などを寄進、また黒田斎清が絵馬などを奉納した。
明治5年(1872年)、現社号に改称。現在までに、神功皇后・級長津彦大神・安徳天皇も併せて祀る。安徳天皇については、近くに安徳台がある。
安徳台は、往古迹驚岡(とどろきのおか)といわれた。神功皇后が神田に水を引くため溝を開いた時、雷電霹靂して大磐石が蹴破られた。
つまり、雷が轟き落ちて溝を開いたところの岡、という意味。その地に後世、斉明天皇が行幸、その時以来、御所が原とも呼ばれるようになった。
この御所が原に、原田種直が源平合戦時、安徳天皇を一時迎えた。それ以来、安徳台と呼ばれるようになった。那珂川の対岸には「御迎」という地名が残る。
例祭は10月第3日曜日で、秋祭。おくんちとも、秋季大祭とも。神功皇后の時代から連綿と続くと思われる流鏑馬神事や相撲が奉納される。
7月31日が夏越祭で、茅の輪くぐりや大祓式の神事が行われる。近年は地域の協力により、境内のライトアップが行われ、岩戸神楽が奉納されるなど、賑わっている。
境内社に、もとは当社の北側にあたる六一森に鎮座し、天正の兵災により遷座した六一神社(伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男尊・豊受姫尊・軻遇突智尊・瓊々杵尊)がある。
今でも、旧地は六一様と呼ばれ、12月6日に当社境内から神幸されている。
他の境内社に、薬祖神社(少彦名尊・玉依姫尊)、天満神社(菅原神・大国主命)、金比羅神社(大物主命)がある。
【ご利益】
海上・交通安全、武運長久・勝運、五穀豊穣、家内安全(公式HP)
【関連記事】
・福岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福岡県に鎮座している神社の一覧
[電話]092-952-2152
現人神社(あらひとじんじゃ)は、福岡県筑紫郡那珂川町仲にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀年代は不詳。創祀は神代とも。当宮の徒歩20分ほどの所に裂田溝(さくたのうなで)がある。現在は裂田神社があり、神功皇后を祀っている。
裂田溝については、『日本書紀』神功皇后紀に記載がある。神功皇后が渡韓にあたり、神の教えを受けたとされる地。
神功皇后の三韓征伐の際、これを幇助したのが底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神であり、当社の主祭神である。
遠征から帰還した神功皇后は神恩に感謝し、神が現世に姿を現したことから「現人神」と称し、竹内宿禰を遣わして奉斎させた。
竹内宿禰は、神田に水を引き、五穀豊穣を祈請して、現人大明神の尊号を授け、兵士に流鏑馬と相撲を奉納させ、神慮を慰められたと伝えられる。
霊験あらたかな現人神の和魂は、神功皇后が大和へ帰還した際、眞住吉之国(住みよい国)と仰いだ摂津の地にも奉斎されたことにより、住吉三神とも称されるようになった。
つまり、現在の住吉大社である。また、当社は福岡の住吉宮にも御分霊したとされ、住吉三神を祀る全国2000社あまりの、住吉三神の本津宮にあたるという。
分かりやすく言えば、全国の住吉神社の元宮、という位置付けになるという。現人大明神の尊号を授けられた後、藤原朝臣佐伯宿禰が当社の祀官を務めるようになった。
平安時代末期の寿永年間(1182年-1184年)、太宰少弐原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より、当社は岩戸郷23ヶ村、現在の那珂川町の総社として崇敬された。
その後も神領・神田など多くの寄進があり、祭祀は原田家が執り行い、社人も30人以上いたともされる。官幣も捧げられたと伝わる。
しかし天正14年(1586年)、高橋紹運の治政下、島津軍との戦乱のため、当社も戦火を蒙り、社殿・神宝・古文書・縁起に至るまで悉く焼失した。
社人30人あまりも戦乱に命を落とし、佐伯刑部の一子、当時7歳だった松千代がただ1人生き残り、後に祀官を継ぎ、現在に至る。
江戸時代になり、元禄年間(1688年-1704年)、黒田靭負重実が当地を統轄、村人による復興機運が高まり、正徳4年(1715年)、現在の神殿が再建された。
現在、御神木である大きな楠が清らかなムードを演出する境内には、この時に建てられた町内最古の鳥居があり、町の文化財に指定されている。
江戸時代中期の天明7年(1786年)、黒田斎昭が参詣、石灯籠一対などを寄進、また黒田斎清が絵馬などを奉納した。
明治5年(1872年)、現社号に改称。現在までに、神功皇后・級長津彦大神・安徳天皇も併せて祀る。安徳天皇については、近くに安徳台がある。
安徳台は、往古迹驚岡(とどろきのおか)といわれた。神功皇后が神田に水を引くため溝を開いた時、雷電霹靂して大磐石が蹴破られた。
つまり、雷が轟き落ちて溝を開いたところの岡、という意味。その地に後世、斉明天皇が行幸、その時以来、御所が原とも呼ばれるようになった。
この御所が原に、原田種直が源平合戦時、安徳天皇を一時迎えた。それ以来、安徳台と呼ばれるようになった。那珂川の対岸には「御迎」という地名が残る。
例祭は10月第3日曜日で、秋祭。おくんちとも、秋季大祭とも。神功皇后の時代から連綿と続くと思われる流鏑馬神事や相撲が奉納される。
7月31日が夏越祭で、茅の輪くぐりや大祓式の神事が行われる。近年は地域の協力により、境内のライトアップが行われ、岩戸神楽が奉納されるなど、賑わっている。
境内社に、もとは当社の北側にあたる六一森に鎮座し、天正の兵災により遷座した六一神社(伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男尊・豊受姫尊・軻遇突智尊・瓊々杵尊)がある。
今でも、旧地は六一様と呼ばれ、12月6日に当社境内から神幸されている。
他の境内社に、薬祖神社(少彦名尊・玉依姫尊)、天満神社(菅原神・大国主命)、金比羅神社(大物主命)がある。
【ご利益】
海上・交通安全、武運長久・勝運、五穀豊穣、家内安全(公式HP)
【関連記事】
・福岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、福岡県に鎮座している神社の一覧
コメント