江戸中期の戸倉新田開発であきる野市の三島神社を勧請
[住所]東京都国分寺市戸倉4-34-7
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戸倉神社(とくらじんじゃ)は、東京都国分寺市戸倉にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

国分寺市のほぼ中央部に位置する戸倉は、江戸時代の中期、戸倉村(旧西多摩郡五日市町戸倉、現在はあきる野市)出身の郷左衛門によって戸倉新田として開かれた。

一般に江戸時代における武蔵野の新田開発は、開発願を提出後に開発地の割り渡しが幕府からあり村として成立した。

戸倉新田の場合、郷左衛門が番場宿、本町(いずれも現 府中市)より開発前の芝地を買い入れ、江戸時代中期の享保14年(1729年)以後、出百姓へ分譲したことに始まる。

同年中に開発地を購入した者は9人あり、出身地は過半の5人が檜原村だった。宝暦10年(1760年)までに42軒の移住者があり、半数の21軒がやはり檜原村の出身者。

しかし、元文4年(1739年)の検地では名主郷左衛門が依然として全体の22%を所有していた。

通常、新田では出身者の親村の神社が分祀されたが、当地では檜原村ではなく郷左衛門の出である戸倉村の清水山王宮、現在の三島神社を勧請、創建した。

この勧請の年代については、享保年間(1716年-1735年)とも、享保14年(1729年)ともされる。どちらにしろ、当社も山王大権現と称され、崇敬された。

それが当社の起源である。ただし、享保年間の勧請を示す資料は存在せず、元文元年(1736年)の検地で、墓所・氏神社地1反5畝歩の存在が判明するのみ。

延享3年(1746年)、檜原村から満福寺を当社の東隣地に引寺し別当となった。

『新編武蔵風土記稿』戸倉新田の条にも山王社とあり、村の鎮守で、別当は満福寺、本社の前に稲荷社の小祠ありとある。

維新後、明治2年(1869年)に山王大権現を戸倉神社に改称、明治8年(1875年)、村社に列した。御祭神は、八千矛神

南西から北東に広がる戸倉の地のほぼ中央に位置し、社地は南西から北東に通じる道筋の南東側に敷地を有し、社殿群は道路に直行するように北西に面する。

道路に面し鳥居を2基構え、ここから参道が南側に伸び、西傍らに社務所、突き当たりに拝殿、本殿及び本殿覆殿などが北西面して建つ。

境内地南東隅には、『新編武蔵風土記稿』にもある末社稲荷神社が祀られている。

例祭は9月15日。8月上旬に納涼盆踊り大会があり、子供も含めて、多くの参加者で賑わい、夜店も出る。

【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、地域安全、縁結び
戸倉神社 東京都国分寺市戸倉
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