粟ヶ池の大蛇を導き、狭山池の中に鎮座、庶民による池信仰
[住所]大阪府大阪狭山市岩室2439-1
[電話]072-365-0905 - 狭山神社
龍神社(りゅうじんじゃ)は、大阪府大阪狭山市岩室にある神社。近代社格は無格社。通称は龍宮さん。狭山神社が管理を行っている。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。河内国丹南郡の狭山池には大昔から雌の大蛇が棲んでいたという。一方、石川郡喜志の粟ヶ池には雄の大蛇がいて、夫婦の間柄だった。
雄の大蛇が棲んでいた粟ヶ池は『日本書紀』にある和邇池にあたるといわれる。その西には水神を祀る美具久留御魂神社が鎮座し、大蛇の伝承もある。
雌の大蛇は毎夜、夫のもとに通ったが、その巨体で田畑の作物を薙ぎ倒し、運悪くそこに居合わせた人や牛馬を丸呑みにしながら行ったから、人々は困り果てた。
退治の話もなかったわけではないが、祟りを畏れたため、夫の大蛇を狭山池に迎えて一緒に棲んでもらうことになった。
狭山池畔に祠を立て、粟ヶ池の大蛇をそこに導き、村人たちは供物を絶やさず祭祀を続け、以来田畑が荒らされることはなくなったという。この祠が当社の起源。
狭山池は、記紀にも記述のある日本最古のダム式溜め池で、7世紀前半の築造と推定されている。奈良時代の行基、鎌倉時代の重源も改修し、大事に使用されてきた。
現在に至るまで周辺地域に灌漑用水を供給し続け、昭和63年(1988年)から始まる平成の大改修では、灌漑機能だけでなく、洪水調節機能も有した治水ダムとなった。
平成8年(1996年)、池底の掘削工事の際、当社の前方30メートルの底部に、直径約27メートル、深さ約5メートルのすり鉢状のくぼみが発見された。
その中央には直径30センチメートル程の穴があり、陶製の壺が入れられていた。壺には逆さにしたすり鉢で蓋がされていて、針金で固定してあった。御神体が入ってた。
このくぼみは龍神淵と称し、幕末の安政5年(1858年)の西除を中心とする大改修の際に掘られたもの。これに関して、伝承が残る。
狭山池では毎年8月を過ぎると水を抜いて干していたが、その間、雌雄の龍神は西除にあった2ヶ所の滝壺に移り、春になって水が溜まり始めるとまた池に戻ったという。
この滝壺は池の水が堤を流れ落ちることによってできたもので、龍神淵、あるいは龍王ヶ淵と呼ばれた。江戸時代前期の元禄7年(1694年)の絵図にも描かれている。
安政の改修ではこの淵を埋めることになったが、作業中に怪我人が出て、龍神の祟りだと噂になった。そこで滝壺の代わりとなる淵を新たに造り、祠を池中に祀ったという。
当社はもとは狭山池の西堤に鎮座していたらしい。江戸時代後期の享和元年(1801年)の『河内国名所図会』には、それらしい祠が確認できる。
しかし、江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)末の詳細な絵図『狭山池惣絵図』には、西堤にそれらしい祠は見えない。
『西除普請並竜神社之訳』には、「善女竜王社」は「往古より西堤ニ小祠在来」していたが、「破滅同様」であったため、嘉永6年(1853年)、「小池辰巳角堤」に遷座したとある。
ちなみに、伝承によれば、この祠に迎えられたのは夫の方のはずだが、当社は善女竜王社(善女龍王社)、あるいは龍宮・龍王社・龍王神社・水分神社などと呼ばれた。
安政の改修の際、現在地である狭山池の北西岸近くの石垣を積んだ小島に祀られるようになったという。
この遷座の理由などはよく分かっていないが、狭山神社とともに式内社で、狭山池の守護神とされ、現在は狭山神社に合祀されている狭山堤神社との関係が指摘される。
狭山堤神社が池の支配権を強めようとした藩主家によって崇敬されたのに対して、それに反発した池付近の各村が当社を建立・奉斎して、藩主家に対抗しようとした、というもの。
どちらにしろ、どんなに遅くとも、江戸時代中期以降、当地の人々、特に庶民によって、当社の祭祀は続けられ、崇敬されてきたことは間違いない。
現在までに、当社の御祭神は、水波能売命・天水分神・国水分神とされる。大蛇や龍神、その雌雄よりは、水神として重きをなしている形態になっている。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、夫婦和合、家内安全
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[電話]072-365-0905 - 狭山神社
龍神社(りゅうじんじゃ)は、大阪府大阪狭山市岩室にある神社。近代社格は無格社。通称は龍宮さん。狭山神社が管理を行っている。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。河内国丹南郡の狭山池には大昔から雌の大蛇が棲んでいたという。一方、石川郡喜志の粟ヶ池には雄の大蛇がいて、夫婦の間柄だった。
雄の大蛇が棲んでいた粟ヶ池は『日本書紀』にある和邇池にあたるといわれる。その西には水神を祀る美具久留御魂神社が鎮座し、大蛇の伝承もある。
雌の大蛇は毎夜、夫のもとに通ったが、その巨体で田畑の作物を薙ぎ倒し、運悪くそこに居合わせた人や牛馬を丸呑みにしながら行ったから、人々は困り果てた。
退治の話もなかったわけではないが、祟りを畏れたため、夫の大蛇を狭山池に迎えて一緒に棲んでもらうことになった。
狭山池畔に祠を立て、粟ヶ池の大蛇をそこに導き、村人たちは供物を絶やさず祭祀を続け、以来田畑が荒らされることはなくなったという。この祠が当社の起源。
狭山池は、記紀にも記述のある日本最古のダム式溜め池で、7世紀前半の築造と推定されている。奈良時代の行基、鎌倉時代の重源も改修し、大事に使用されてきた。
現在に至るまで周辺地域に灌漑用水を供給し続け、昭和63年(1988年)から始まる平成の大改修では、灌漑機能だけでなく、洪水調節機能も有した治水ダムとなった。
平成8年(1996年)、池底の掘削工事の際、当社の前方30メートルの底部に、直径約27メートル、深さ約5メートルのすり鉢状のくぼみが発見された。
その中央には直径30センチメートル程の穴があり、陶製の壺が入れられていた。壺には逆さにしたすり鉢で蓋がされていて、針金で固定してあった。御神体が入ってた。
このくぼみは龍神淵と称し、幕末の安政5年(1858年)の西除を中心とする大改修の際に掘られたもの。これに関して、伝承が残る。
狭山池では毎年8月を過ぎると水を抜いて干していたが、その間、雌雄の龍神は西除にあった2ヶ所の滝壺に移り、春になって水が溜まり始めるとまた池に戻ったという。
この滝壺は池の水が堤を流れ落ちることによってできたもので、龍神淵、あるいは龍王ヶ淵と呼ばれた。江戸時代前期の元禄7年(1694年)の絵図にも描かれている。
安政の改修ではこの淵を埋めることになったが、作業中に怪我人が出て、龍神の祟りだと噂になった。そこで滝壺の代わりとなる淵を新たに造り、祠を池中に祀ったという。
当社はもとは狭山池の西堤に鎮座していたらしい。江戸時代後期の享和元年(1801年)の『河内国名所図会』には、それらしい祠が確認できる。
しかし、江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)末の詳細な絵図『狭山池惣絵図』には、西堤にそれらしい祠は見えない。
『西除普請並竜神社之訳』には、「善女竜王社」は「往古より西堤ニ小祠在来」していたが、「破滅同様」であったため、嘉永6年(1853年)、「小池辰巳角堤」に遷座したとある。
ちなみに、伝承によれば、この祠に迎えられたのは夫の方のはずだが、当社は善女竜王社(善女龍王社)、あるいは龍宮・龍王社・龍王神社・水分神社などと呼ばれた。
安政の改修の際、現在地である狭山池の北西岸近くの石垣を積んだ小島に祀られるようになったという。
この遷座の理由などはよく分かっていないが、狭山神社とともに式内社で、狭山池の守護神とされ、現在は狭山神社に合祀されている狭山堤神社との関係が指摘される。
狭山堤神社が池の支配権を強めようとした藩主家によって崇敬されたのに対して、それに反発した池付近の各村が当社を建立・奉斎して、藩主家に対抗しようとした、というもの。
どちらにしろ、どんなに遅くとも、江戸時代中期以降、当地の人々、特に庶民によって、当社の祭祀は続けられ、崇敬されてきたことは間違いない。
現在までに、当社の御祭神は、水波能売命・天水分神・国水分神とされる。大蛇や龍神、その雌雄よりは、水神として重きをなしている形態になっている。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、夫婦和合、家内安全
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