日本武尊・弟橘姫の船の木片が漂着、漆喰鏝絵とかっぱ狛犬
[住所]東京都品川区東品川1-35-8
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寄木神社(よりきじんじゃ)は、東京都品川区東品川にある神社。近代社格では村社。荏原神社の境外末社で、御朱印も荏原神社で頂ける。

社伝によれば、日本武尊が東征の際、相模国から走水の海、現在の浦賀水道を渡ろうとしたところ、海神により嵐が起こされ船は沈没寸前となった。

妃の弟橘姫は海神の怒りを鎮めるべく、その身を犠牲にして入水したことにより、日本武尊は難を逃れた。

船が嵐に見舞われ破損した際の木片が品川浦に漂着し、これを漁民らが納めて祀ったのが創祀とされる。

弟橘姫の御衣が流れ着いたという別説もあるようだが、弟橘姫の櫛や亡骸ではなく、船の木片というのは珍しく、社号の由来か。御祭神は、日本武尊・弟橘姫。

平安時代、源義家は奥州征伐時に当地に立ち寄り、漁民からこの寄木明神の由来を聞いた義家は奉幣し、戦勝を祈願したという。

義家は奥州平定後の帰路においても再び参詣して兜を奉納したことから、以後当地は兜島と称された。

当初の鎮座地は漁民の集落があった南宿三町目、現在の南品川3丁目付近で、与惣兵衛、または興兵衛という人物の居地に祀られていた。

この後、同人が旧社地から現在地へ移転する際、当社も併せて遷された。

当社は慶長年間(1598年-1614年)の創建ともされるが、創祀は先述のように古く、この慶長年間はこの際の遷座を伝えたものか。

『新編武蔵風土記稿』南品川猟師町に「寄木明神社」とあり、江戸時代には南品川貴布彌社、つまり現在の荏原神社により管理されていた。

猟師町の鎮守で、『江戸名所図会』にも描かれている。境内の「江戸漁業根源之碑」の碑は、この一帯の猟師町の歴史を刻んでいる。

石倉づくり本殿内の2枚の扉に、江戸時代後期から明治時代に活躍した左官の名工、伊豆長八の漆喰鏝絵の大作「鏝絵天鈿女命功績図」がある。区指定文化財。

漆喰鏝絵とは、壁面に漆喰を鏝を用いてレリーフ状に作り、絵の具で彩色したもの。これを考案したのが、伊豆長八として知られる入江長八である。

当社殿は幕末に火災で焼失し、明治初年(1868年)、その再建を長八に託した。社殿は堅固な土蔵造りの奥本殿からなり、鏝絵の扉で仕切られている。

向かって左扉上部に天照大神、下のほうに天鈿女命を描き、右扉には猿田彦命を描いている。

なお、当社の拝殿は、ムクリ屋根の破風が乗っている珍しい形態で、東京では他に、中野区松が丘の北野神社の拝殿などがあるぐらいで、類例が少ないもの。

境内地は広くはないが、三対の狛犬が安置されている。一つは青銅製のもので、昭和63年(1988年)造、もう一つは拝殿前の尾流れ型で、大正2年(1913年)造。

もう一つが、尾流れ型のそばに特徴的なモチーフの小さな狛犬で、「かっぱ狛犬」。文政11年(1828年)造で、阿形吽形共に頭頂部にくぼみが造られている。

このくぼみにロウソクを立て、灯台代わりにしたという説もある。同様の狛犬が、品川神社にもある。

また、岩手県遠野のかっぱ淵に隣接する常堅寺(曹洞宗)境内には「かっぱ狛犬」がある。

境内社に、稲荷社と亀の甲社がある。亀の甲社について、明治時代末期、品川浦に大きな海亀が迷い込み、漁師達がこれを捕えて、村民に披露したという。

しかし、この亀は独り鎖を首に巻き付けて死亡したため、この亀の霊を末社として祀ったのが亀の甲社の起源である。

正徳元年(1711年)に町奉行から出された本高札の追加補充として、正徳2年(1712年)に発せられた「浦々添高札」が現存する。

御城米船が海難事故にあったときの取り扱いについてのもので、「添浦高札」として、現在では区指定文化財。

なお、大田区大森北の大森神社は、寄来さま・寄來さまと呼ばれ、これは寄木であり、当社との関係が指摘される場合がある。

【ご利益】
諸願成就、夫婦和合、家内安全、武運長久・勝運
寄木神社 東京都品川区東品川
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寄木神社 東京都品川区東品川の御朱印