祭祀は古墳初期からか、旧上板橋村の鎮守、9月渡御、12月熊手市
[住所]東京都板橋区南常盤台2-4-3
[電話]03-3956-6168

常盤台天祖神社(ときわだいてんそじんじゃ)は、東京都板橋区南常盤台にある神社。近代社格では村社。ときわ台天祖神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

創祀・創建年代は不詳。当社の近隣では、古墳時代初頭の住居跡である向屋敷遺跡が発見されており、社地は古くから禁足地や祭祀地とされていた可能性がある。

また、鎌倉時代中期、御深草天皇(在位:1246年-1260年)の頃に、上板橋村字原に天照大御神の御姿が現われた跡(影向跡)に伊勢を勧請したとの伝承がある。

当地一帯が豊島氏による開拓が進められ、鎌倉時代から室町時代にかけて、集落が形成される過程で、神社としての体裁が整えられたと考えられている。

江戸時代には神明社、神明宮などと称され、旧上板橋村の鎮守だった。御祭神は、天照大御神・豊受姫命大山咋命

境内にある狛犬や、現存する絵馬などの奉納者に、川越街道上板橋宿の住人の名が見え、宿場と深い結びつきがあったことがうかがえる。

江戸時代後期の寛政9年(1797年)、文人・狂歌師で幕府御家人でもあった大田南畝(蜀山人)は、その著書『異本武江披砂』で下記のように当社の様子をつづっている。
上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当に行けば神明宮あり、長命寺の持なり、古老松杉枝を交えて大なる柊もあり、宮居のさまも藁葺きて、黒木の鳥居も神さびたり
明治5年(1872年)、村社に列し、天祖神社に改称した。

昭和20年(1945年)6月10日、空襲で神楽殿が半壊し、社殿も被災したが、昭和28年(1953年)に神楽殿が再建され、昭和45年(1970年)には社殿が改修された。

例祭は9月21日で秋祭。その後の土・日曜日には神輿渡御があり、特に日曜日には、里神楽の奉納の他、夕方からは各町内のおみこしが集結する連合神輿宮入がある。

毎週土曜日の午後7時から、神楽殿で神田流神明囃子保存会によるお囃子の練習が行われている。年齢・経験は不問で、初心者でも気軽に参加できるという。

また、毎年12月2日には熊手市が開催され、小さな熊手が1000円で授与される。

表参道に、幕末の弘化3年(1847年)造の狛犬がある。台座には円形の傷があり、6月10日の板橋空襲の際、飛び散った爆弾の破片によってできたもの。

末社として、石祠の榛名神社(齋火産霊神埴山比売神)の他、伊勢神社(大日孁貴命)、月読神社(月読命)、日枝神社(大山咋命)、北野神社(菅原道真公)、稲荷神社(宇迦之御魂神)がある。

このうち日枝神社は、江戸時代初期の慶長19年(1614年)、当地で徳川家康が遊猟した記念に、里人が浄財を出しあい創建したと伝えられている。

もとは上板橋村向屋敷、現在の常盤台1-19付近に鎮座し、権現社と呼ばれていた。

また、榛名神社は、上板橋村で旱魃になると群馬県の榛名神社に詣でて御神水を受け、村内に配った名残で、その出立時や帰村時に必ずこの社に詣でたという。

他に、手水舎そばには水神社が鎮座する。「御井戸」と呼ばれ、井戸跡を祀っているという。

板橋区弥生町12-10には境外末社の豊敬稲荷神社(宇迦魂大神・猿田彦神大宮売神)がある。一時衰退したが、福本芳太郎が私財を投じ、現在地に遷座・再建したという。

地名の「常盤」「ときわ」は、当社の祝詞の一節からの命名とする説がある。どちらにしろ、当社に由来する地名だという。

【ご利益】
開運招福、家内安全、商売繁盛(公式HP
常盤台天祖神社 東京都板橋区南常盤台
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常盤台天祖神社 東京都板橋区南常盤台の御朱印