藩政時代に式内・坂本神社と認定、旧郷社に、全国最小?
[住所]高知県安芸郡芸西村和食字馬上土居
[電話]-
王子宮(おうじぐう)は、高知県安芸郡芸西村和食馬ノ上にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 安芸郡「坂本神社」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では郷社。
幕末の安政3年(1856年)、和食郷の金岡山宇佐八幡宮に隣接する権現社、つまり当宮を改築した。
その際、社殿の横梁に「奉造立坂本権現慶長十三歳(1608年)孟夏吉日大工小助」という墨書銘が発見された。
これが、式内社「坂本神社」の可能性のある証拠とされ、籐原益躬は主に以下の数点をその根拠として列挙した。
1.坂本神社は多気神社の西に鎮座するはずだが、金岡山は方角に合致する。
2.権現は単に神社への尊称で、坂本神を坂本権現と呼び、後に坂本の名が失われた。
3.鎮座地は和食郷だが、布師郷と思われる。布師郷は後世忘れられたが、井ノロ村は現存する。
4.井ノ口村から西、金岡山あたりまでが布師郷だったはずで、そこは布師氏の領地だった。
5.金岡山周辺にタフシヤシキと呼ばれる場所がある。もとはヌノシヤシキと呼び、布師氏の舘のこと。
6.布師氏も坂本氏と同族だから、祖神葛城襲津彦命を祀った。
ただ、坂本神社の坂本は坂本氏とは関係なく、「山坂があって、その其麓を坂本と呼ぶ」ということが常で、単なる地名、との見方もある。
発見者の和食の神主である松本越前純明は、墨書銘発見を藩庁に届け、藩庁はこの権現社を式内社「坂本神社」と認定した。
しかし、当宮がこの中に出てくる権現社である、というのは、実は消去法でしかない。郷内に他に権現という地名や社名が見当たらないことによる。
当宮は王子宮、熊野権現であろう、という連想が働いた。
『式内社調査報告』では、「位置からは、坂の本に鎮座されているが、一棟でわびしい宮居である。論社としては別に掲げない」としている。
わびしい宮居が否定の根拠になっているが、現時点で、式内社であることが確実な神社の中でも、相当さびれていたりすることは、決して珍しくはない。
ただ、奈半利町の多気坂本神社の、坂本神社が相当有力な式内論社、というより、他に論社がなく、ほぼ確定している現状から考えれば、現状において当宮の式内比定は難しいか。
当宮に関する創建、由緒、沿革はいずれも不詳。藩政時代の式内認定が大きかったのか、明治5年(1872年)、郷社に列した。
それこそ、この規模で郷社というのも、全国的に珍しいかもしれない。当宮の御祭神も不透明だが、一応、五男三女神とされる場合が多い。
【ご利益】
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【関連記事】
・高知県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、高知県に鎮座している神社の一覧
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王子宮(おうじぐう)は、高知県安芸郡芸西村和食馬ノ上にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 安芸郡「坂本神社」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では郷社。
幕末の安政3年(1856年)、和食郷の金岡山宇佐八幡宮に隣接する権現社、つまり当宮を改築した。
その際、社殿の横梁に「奉造立坂本権現慶長十三歳(1608年)孟夏吉日大工小助」という墨書銘が発見された。
これが、式内社「坂本神社」の可能性のある証拠とされ、籐原益躬は主に以下の数点をその根拠として列挙した。
1.坂本神社は多気神社の西に鎮座するはずだが、金岡山は方角に合致する。
2.権現は単に神社への尊称で、坂本神を坂本権現と呼び、後に坂本の名が失われた。
3.鎮座地は和食郷だが、布師郷と思われる。布師郷は後世忘れられたが、井ノロ村は現存する。
4.井ノ口村から西、金岡山あたりまでが布師郷だったはずで、そこは布師氏の領地だった。
5.金岡山周辺にタフシヤシキと呼ばれる場所がある。もとはヌノシヤシキと呼び、布師氏の舘のこと。
6.布師氏も坂本氏と同族だから、祖神葛城襲津彦命を祀った。
ただ、坂本神社の坂本は坂本氏とは関係なく、「山坂があって、その其麓を坂本と呼ぶ」ということが常で、単なる地名、との見方もある。
発見者の和食の神主である松本越前純明は、墨書銘発見を藩庁に届け、藩庁はこの権現社を式内社「坂本神社」と認定した。
しかし、当宮がこの中に出てくる権現社である、というのは、実は消去法でしかない。郷内に他に権現という地名や社名が見当たらないことによる。
当宮は王子宮、熊野権現であろう、という連想が働いた。
『式内社調査報告』では、「位置からは、坂の本に鎮座されているが、一棟でわびしい宮居である。論社としては別に掲げない」としている。
わびしい宮居が否定の根拠になっているが、現時点で、式内社であることが確実な神社の中でも、相当さびれていたりすることは、決して珍しくはない。
ただ、奈半利町の多気坂本神社の、坂本神社が相当有力な式内論社、というより、他に論社がなく、ほぼ確定している現状から考えれば、現状において当宮の式内比定は難しいか。
当宮に関する創建、由緒、沿革はいずれも不詳。藩政時代の式内認定が大きかったのか、明治5年(1872年)、郷社に列した。
それこそ、この規模で郷社というのも、全国的に珍しいかもしれない。当宮の御祭神も不透明だが、一応、五男三女神とされる場合が多い。
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