古代波多氏、土佐幡多郡の由来とも、多武峯・冬野城の鎮守
[住所]奈良県高市郡明日香村冬野152
[電話]-
波多神社(はたじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村冬野にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「波多神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(小社)。
冬野集落の一番上、談山神社の南方にある山の山頂に鎮座する。創祀・創建年代は不詳。
当社について、『大日本地名辞書 上方』に「大和志に今高市村の大字畑に在りと為す、畑は高取村の東に接すれば或は然らん、本社は延喜式に列す、波多氏の祖神なるべし」とある。
波多氏は、武内宿禰の長男である波多八代宿禰を祖とし、姓は臣のち朝臣、真人。八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも。
大和国高市郡波多郷の地名由来となった。
ただし、現在の御祭神は事代主命とする。これについては、土佐国幡多郡に賀茂氏の伝承が多数あることとも関連し、幡多郡の由来は当社名から、ともされる場合がある。
土佐国幡多郡には式内社が三社あり、幡多三古社と総称されるが、加茂神社・高知坐神社・伊豆田神社、いずれも賀茂氏と直接・間接の関わりが見られる。
特に、高知坐神社では、「高知」の社名由来が、大和国高市郡鎮座の高市御縣坐鴨事代主神社と同神であることから、ともされ、当社も事代主命ということになる。
『大同類聚方』に、志路木薬について、「新羅国鎮明之伝法」で、「大和国高市郡波多神社所伝」と記している。
往古は当社付近で薬草が採集され、それが当社所伝の志路木薬(新羅薬か)として伝えられたようだ。
中世以降には多武峯寺の支配下に属し、その坤の方位に当ることから、その裏鬼門鎮祭の神として遇せられたという伝承がある。
冬野城の鎮護社として祀られたとも。冬野地区の背後にある電波塔と当社境内が冬野城の二の曲輪で、堀切を隔てて東側に主郭が置かれた。
冬野城は、多武峰寺が、天仁元年(1108年)以来、興福寺との争いが続き、何度も興福寺衆徒により堂宇を焼かれ、その都度普請され城砦化された、その多武峰城砦群の一つ。
南北朝時代から戦国時代まで、多武峰を舞台に三度の合戦が行われ、冬野城ではその度に激戦が繰り返された。
特に、永正3年(1506年)に十市・箸尾・越智氏らによる国一揆が多武峰に籠もり、幕府が派遣した赤沢朝経に攻められた永正合戦が最大規模の合戦。
戦国時代の永禄2年(1559年)に十市氏が籠もり、松永久秀が攻めた。これらの戦いに当社も無縁であったとは思えない。その都度、戦火に遭ったのだろう。
江戸時代には「気多祠」「北大明神」などとも称したという。現在はこじんまりとしながら、しっかりとした社殿が建ち、祭祀が続いている。例祭は9月14日。
当社の近くには、鎌倉時代、第90代亀山天皇の第4皇子とも第8皇子ともされる良助法親王の良助親王墓(良助親王冬野墓)がある。
良助法親王は、京都青蓮院の尊助法親王の弟子となり、延暦寺の座主を勤め、後に多武峰の清浄院に住んだ。
墓域に、親王没後の南北朝末期に作られたものだとされる五輪塔がある。また、周辺には「冬野の名水」と呼ばれる湧水が湧いている。
【ご利益】
諸願成就

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波多神社(はたじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村冬野にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「波多神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(小社)。
冬野集落の一番上、談山神社の南方にある山の山頂に鎮座する。創祀・創建年代は不詳。
当社について、『大日本地名辞書 上方』に「大和志に今高市村の大字畑に在りと為す、畑は高取村の東に接すれば或は然らん、本社は延喜式に列す、波多氏の祖神なるべし」とある。
波多氏は、武内宿禰の長男である波多八代宿禰を祖とし、姓は臣のち朝臣、真人。八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも。
大和国高市郡波多郷の地名由来となった。
ただし、現在の御祭神は事代主命とする。これについては、土佐国幡多郡に賀茂氏の伝承が多数あることとも関連し、幡多郡の由来は当社名から、ともされる場合がある。
土佐国幡多郡には式内社が三社あり、幡多三古社と総称されるが、加茂神社・高知坐神社・伊豆田神社、いずれも賀茂氏と直接・間接の関わりが見られる。
特に、高知坐神社では、「高知」の社名由来が、大和国高市郡鎮座の高市御縣坐鴨事代主神社と同神であることから、ともされ、当社も事代主命ということになる。
『大同類聚方』に、志路木薬について、「新羅国鎮明之伝法」で、「大和国高市郡波多神社所伝」と記している。
往古は当社付近で薬草が採集され、それが当社所伝の志路木薬(新羅薬か)として伝えられたようだ。
中世以降には多武峯寺の支配下に属し、その坤の方位に当ることから、その裏鬼門鎮祭の神として遇せられたという伝承がある。
冬野城の鎮護社として祀られたとも。冬野地区の背後にある電波塔と当社境内が冬野城の二の曲輪で、堀切を隔てて東側に主郭が置かれた。
冬野城は、多武峰寺が、天仁元年(1108年)以来、興福寺との争いが続き、何度も興福寺衆徒により堂宇を焼かれ、その都度普請され城砦化された、その多武峰城砦群の一つ。
南北朝時代から戦国時代まで、多武峰を舞台に三度の合戦が行われ、冬野城ではその度に激戦が繰り返された。
特に、永正3年(1506年)に十市・箸尾・越智氏らによる国一揆が多武峰に籠もり、幕府が派遣した赤沢朝経に攻められた永正合戦が最大規模の合戦。
戦国時代の永禄2年(1559年)に十市氏が籠もり、松永久秀が攻めた。これらの戦いに当社も無縁であったとは思えない。その都度、戦火に遭ったのだろう。
江戸時代には「気多祠」「北大明神」などとも称したという。現在はこじんまりとしながら、しっかりとした社殿が建ち、祭祀が続いている。例祭は9月14日。
当社の近くには、鎌倉時代、第90代亀山天皇の第4皇子とも第8皇子ともされる良助法親王の良助親王墓(良助親王冬野墓)がある。
良助法親王は、京都青蓮院の尊助法親王の弟子となり、延暦寺の座主を勤め、後に多武峰の清浄院に住んだ。
墓域に、親王没後の南北朝末期に作られたものだとされる五輪塔がある。また、周辺には「冬野の名水」と呼ばれる湧水が湧いている。
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