幡多三古社、応仁期再興、八幡宮を合祀、安政津波の記憶
加茂神社 高知県幡多郡黒潮町入野6930
[住所]高知県幡多郡黒潮町入野6930
[電話]0880-43-2113

加茂神社(かもじんじゃ)は、高知県幡多郡黒潮町入野にある神社。賀茂神社、加茂八幡宮、賀茂八幡宮などとも。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 幡多郡「賀茂神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創祀・創建年代は不詳。幡多郡では宿毛市平田の高知坐神社、土佐清水市下ノ加江の伊豆田神社とともに幡多三古社の一つ。

境内鳥居に「加茂神社」「八幡宮」とあり、相殿の形で、八幡宮(帯中彦命息長足姫命品陀別命武内宿禰命)が祀られている。

もとは、役場付近の「加茂屋敷」という場所にあったが、京都石清水八幡宮を勧請し、早咲から遷座して来た八幡宮と合祀され、現在地に遷座したという。

御祭神は、山城国賀茂社の別雷命。ただし『続日本紀』に、「高鴨神」が大和の葛城山で、大泊瀬天皇(雄略天皇)と獲物を争い、怒った天皇は高鴨神を土佐に流したとある。

高鴨神は、はじめ幡多郡の当社へ流され、次いで、土佐神社へ移り祀られたという。よって、大和国高鴨社御祭神の味耜高彦根命を当社御祭神とする説もある。

また、『新撰姓氏録』大和国神別「賀茂朝臣 大神朝新同祖。大国主神之後也。大田田禰古命孫」とある大鴨積命(大賀茂都美命)とする説もあるという。

『土佐物語』に、式内社としての当社に参詣したと記載されているという。当社の『神社明細記』によれば、応仁年間(1467年-1469年)に藤原家基が再興したとも伝わる。

当社に現存する最古の棟札は安土桃山時代の天正5年(1577年)6月のもので、八幡宮再建が記されており、八幡宮の遷座はこの時期とも考えられている。

天正17年(1589年)、長宗我部元親の「入野大方三郷地検帳」には、郷中の入野・加持・鞭・田之土浦・ロ之口の5ヶ村に、計3町8反24代の社領があったと記載されている。

慶長4年(1599年)8月、慶安3年(1650年)8月、元禄13年(1700年)12月、享保12年(1727年)1月、延享2年(1745年)の社殿造営、文政2年(1819年)8月13日の改築の記録が残る。

入野郷の総鎮守として、古くから崇敬されてきた。古くには、祭礼で田楽舞・流鏑馬・子踊・花取り・ねり・相撲・神楽などが行われてきたという。

その日には毎年、鹿持(加持)村山党明神の神輿が来て、三位一体におなばれが行われたという。明治5年(1872年)、郷社に列した。

例祭は10月第3日曜日で、秋祭り。子踊・花取り・神輿・流鏑馬などがあるという。1月15日前後の土・日曜日がどんど焼きで、7月第3日曜日に夏祭りがある。

境内社に、天神宮、竈戸社・山津社・尼津社の合殿がある。参道の左手に「大方あかつき館」という白い建物の図書館があり、広い駐車スペースになっている。

太平洋に面した入野地区では、津波や台風の被害が多く、境内右手には、「安政津波の碑」がある。幕末の安政元年(1854年)11月5日午後4時に発生した大津波に関するもの。

この大津波の際、社殿が石口を離れて浮き上がったが、潮が引くに従って、もとの柱石に座り、異常はなかったと伝わる。

御神体は伊田浦の漁師の釣り船にかかってあがったといわれ、当社祭札には伊田浦の漁師の参加を待って行われたとの言い伝えがある。

大地震に備えるよう後世への警告であることは間違いない。

【ご利益】
家内安全、一族・子孫繁栄、五穀豊穣、災害除け
加茂神社 高知県幡多郡黒潮町入野
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