浅間神社を勧請、後期古墳群との関係、古式神幸「オンビキゾー」
朝峯神社 高知県高知市介良乙1927
[住所]高知県高知市介良乙1927
[電話]088-860-1482

朝峯神社(あさみねじんじゃ)は、高知県高知市介良乙1927にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 長岡郡「朝峯神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創祀・創建年代は不詳。鉢伏山の北の峰の介良山、通称介良富士の西麓に鎮座し、この介良富士を御神体山として祀るという。

時期不明ながら、富士山を祭祀する浅間神社からの勧請が創祀だという。主祭神は木之花咲耶姫命。相殿に爾爾伎之命大山祇命を祀る。

周辺には宮の谷古墳・高間原古墳群・高天原古墳群など多くの古墳時代後期の古墳が所在し、当社の存在はこれらを営んだ豪族と対比される。

社名は、「浅間の峯」が「朝峯」になったもの。国史では、平安時代前期の貞観8年(866年)に「朝岑神」の神階が従五位下から従五位上 に昇叙されたと見える。

『和名類聚抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は長岡郡気良郷に比定される。中世には当地の豪族の横山氏から崇敬を受け、横山氏による造営があったことが棟札などで確認できる。

安土桃山時代の天正16年(1588年)『介良庄地検帳』では、「朝峯大明神」として記載され、規模として「一社、舞殿横殿、五間弐間、鳥居馬場」とあるほか、多くの神領が記されている。

江戸時代には、元文4年(1739年)の社殿修復に際して、近隣の西養寺との間で訴訟を起こしたと『南路志』に記されている。

この西養寺は、源頼朝の実弟である源希義の菩提を弔った寺として知られたが、現在は廃寺。その跡地には希義の墓塔と伝える無縫塔が残されている。

明和2年(1765年)、土佐藩主山内家の祈願所の8社目に加えられて、崇敬を受けた。『万葉集古儀』の鹿持雅澄、『南路志』の武藤平道が下記の歌を奉納している。
鹿持雅澄
まいのぼる この朝峯の 皇神に 手向ける麻と 散る桜かも

武藤平道
のどかなる 御世のしるしと 廣前に はなのしふゆふ 掛けてくるかも
明治5年(1872年)、郷社に列した。本殿は拝殿から約10メートルほどの高所にあり、女人禁制の階段を登った先、「甕の巌屋」と称される女陰岩の前に鎮座する。

この岩の割れ目からは常に水が滴り、その水は涸れることがなく、雨でも増えることもないという。

水が滴り落ちる所に池があり、これを「産井池」という。昔、その中に素焼きの瓶があり、旱魃の時に、その瓶をゆすると、即時に雨が降ったという。

なお、拝殿前には本殿鎮座の女陰岩に対応するように、完全な男根の形をした、陽根石が安置されている。

例祭は10月第3日曜日で秋祭。「朝峯神社祭礼」として、市指定無形民俗文化財。神幸の列にしめ飾りをした酒瓶が行く。

これを担く二人の白丁が、オンビキゾーと囃しながら行くが、これは、祭りの列を敵と勘違いした横山勢に矢を射掛けられたことがあったため、「御神酒ぞー」の意とされている。

しかし、昔、南国市に鎮座していた時、酒を供えるとおおきなオンビキ(がま)が飲んでしまい、介良へ遷座した経緯があることから、「オンビキが来るぞ、早く行け」という意味とも。

また、御神幸(おみゆき)、お身内ぞー、御曳像などの意味と、諸説ある。

神幸は少年たちの棒打ちもみられるが、注目すべきものに行子(ぎょうじ)と頂女郎(いたじょう)がある。

行子は、母親に抱かれた幼児または幼童。神輿が発達するまでは、この行子に神霊を乗り移らせ、神馬にのせて神幸していた風の名残りである。

神主が大祓という祝詞を唱えているうちに昏睡状態になり、それが神霊の乗り移ったことであった。

この行子の世話役が頂女郎である。頂女郎は月のもののなくなった女性がなる。神幸が旅所に着くと、頂女郎は白粉の厚化粧をする。

帰社すると直ぐに化粧を洗い落とす。化粧が神がかりの手段であった古代信仰を秘めたもの。また旅所で行子たちに振舞われる田芋、枝豆、吸物膳も古式として注目される。

なお、7月10日には夏祭がある。境内社一宇があり、『式内社調査報告』によれば、境内社は雷電神社・子守神社など6社を祀る、とある。

【ご利益】
子宝・安産、酒造、産業振興、火防
朝峯神社 高知県高知市介良乙
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