将門の乱鎮圧の将軍・藤原忠文、恩賞もらえず深く恨んで祟りなす
[住所]京都府宇治市宇治又振47
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末多武利神社(またふりじんじゃ)は、京都府宇治市宇治又振にある神社。御朱印の有無は不明。

宇治は無常を意味する「憂し」に通ずるともいわれ、藤原一族の栄華の舞台となった一方で、この宇治の地は失意に打ちひしがれた人々も受け入れてきた。

宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文は、天慶2年(940年)、平将門の乱鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ、東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。

この将門の乱に際しての恩賞で、忠文は大納言藤原実頼の反対により対象から外され、忠文は実頼を深く恨んだという。

天暦元年(947年)6月26日、忠文が没すると、実頼の娘で、村上天皇の女御だった述子と、長男藤原敦敏が相次いで亡くなった。

これが忠文の怨霊に祟られたのだという噂がたち、その霊を慰めるために建てられたのが当社だという。忠文はこれにより、悪霊民部卿とも呼ばれるようになった。

ただ、藤原敦敏の場合、藤原忠平に連なるため、忠文の怨霊ではなく、菅原道真の祟りによるもの、とも考えられたという。

史上の祟り神としては、菅原道真、平将門ほど知名度はないものの、現在も「憂し」の地で丁重に祀られている、日本の重要な神の1柱である。

【ご利益】
諸願成就
末多武利神社 京都府宇治市宇治又振
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