室町期創建の妙見大明神、桃山期の石灯籠、10月には時代絵巻行列
[住所]兵庫県加古川市西神吉町宮前81
[電話]079-431-2130

神吉八幡神社(かんきはちまんじんじゃ)は、兵庫県加古川市西神吉町宮前にある神社。近代社格では郷社。神吉八幡宮とも呼ばれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。

室町時代の応永3年(1397年)9月23日の夜更け、すべてのものが静まり返った時、印南郡神吉の庄鞍馬山に瑞祥があり、一筋の神火が飛んできて、天下原の地に落ちた。

天地はそのために赤くただれ、まるで昼間のようになった。村の人は驚愕し、なすすべもなかったという。

これは八幡太神の化身であると考え、ほど近い大国の里の松がうっそうと茂る地を霊地として祀り、祠を建て、神吉の庄の氏神とした。

これが当社の起源だという。当初は天下原村の圭光山鞍馬寺の境内に鎮座したとも。後に大国村に遷座して、妙見大明神と称したとも伝わる。

その後、嘉吉の乱(1441年)で焼き討ちに遭い、社殿が焼失。応仁2年(1468年)、神吉の庄の領主だった神出元盛が、大国の里の当社を宮山の現在地に遷座し、再建した。

この地は、聖武天皇の行宮とも伝わり、宮前北の山という地で、遷座後は妙見山宝林寺中之坊妙見大明神と呼ばれた。

現在までに、当社そのものが上の宮、大国の旧地は御旅所となって、下の宮と呼ばれる。

安土桃山時代の天正3年(1575年)、神吉城最後の城主である神吉頼定が寄進した石灯籠が現存する。この3年後、頼定は織田信忠との戦い、神吉城攻防合戦で討ち死。

江戸時代前期の寛永9年(1633年)、落雷により社殿などが焼失したが、天和3年(1684年)には再建された。これが現在の社殿のもととなる。

往時は秋祭りが盛大に行われ、現在は市の文化財に指定されている祭礼絵巻には、江戸時代後期の華やかな秋祭りの様子を知ることができる。

宝暦12年(1762年)『播磨鑑』や文化元年(1804年)『播磨名所巡覧図会』にも妙見大明神とあり、当時は神社というよりは寺院として認識されていたという。

明治になり、神社として独立、現社号に改称した。御祭神は誉田別命(応神天皇)。昭和になり、郷社に昇格した。

現在の例祭は、10月体育の日の前日の土・日曜日で秋季例祭。宮入祭・奉告祭・渡御式(神幸行列)・環幸祭からなる。

現在も、上記の絵巻さながらの神幸行列が見もの。神幸行列は、各村が持ち回りで当番となって実施される。

当番の順は、1.宮前・東山、2.天下原、3.神吉、4.神吉、5.中西・西村、6.大国、7.鼎の輪番であるが、神吉と天下原は順番は変則的である。

昼宮において行列は村を出発し、上の宮に向かい、上の宮で神事を行った後に神輿とともに各村を回りながら御旅所である下の宮に向かう。

下の宮で祭事を行った後に各村を回って上の宮に戻る。神輿練りはシデの動きに合わせて揺らすように練られる。また宮前・大国・神吉の3ヶ村から屋台が奉納される。

なお、当社は旧印南郡において、毎年春、3月末から5月初頭のいずれかに行われる臨時の祭り、国恩祭を行う神社の一社。

境内社に、愛宕神社・天照皇大神宮・大年神社・稲荷大明神・稲荷神社・八坂神社・大歳神社がある。

【ご利益】
厄災除け、子宝・安産、地域安全
神吉八幡神社 兵庫県加古川市西神吉町宮前
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神吉八幡神社 兵庫県加古川市西神吉町宮前の御朱印