神功皇后が創祀「高砂の尾上」「尾上の松」「尾上の鐘」
[住所]兵庫県加古川市尾上町長田518
[電話]079-424-8125
尾上神社(おのえじんじゃ)は、兵庫県加古川市尾上町長田にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
昔、神功皇后が三韓征伐の途上、住吉大明神が海上を守護したため、皇后は凱旋に際して、当地に上陸した。
しかし、霖雨が降り続いて軍を進めることができなかった。そこで、皇后は「鏡の池」で斎戒沐浴して当社を鎮祭し、晴を祈願したという。
以後、軍神として、また、海上の守護神として舟人の参詣が多かったという。御祭神は、住吉大明神で、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神と、息長足姉命の総称。
『播磨風土記』に「昔大帯日子命、幸行別媛之處、道辺有長田、刺云、長田哉、故日長田里」とあり、この長田は当社地周辺と考えられている。
古くから発達した土地で、「高砂」という地名は、昔この辺一帯の総称で、当社はいわゆる「高砂の尾上」といわれ、古歌・謡曲にも「高砂の尾上云々」と謳われた。
醍醐天皇(在位:897年-930年)の御代、肥後国阿蘇宮の神官、友成が上京、その際に当社に参拝し、相生の松を探し求めた。
その際、尉姥二神が顕れ、夫婦睦まじく、歳久しく、住んだという。この目出度い古説は、口伝され、丹青に画かれ、詩歌に詠まれた。
境内には、謡曲『高砂』に謡われた、相生霊松「尾上の松」がある。 相生の松とも称されたこの尾上の松は、古来から様々な歌に詠まれてきた。
豊臣秀吉の中国征伐、いわゆる三木城攻めの際、毛利・小早川・吉川の軍勢がこの海岸に上陸して陣を敷いた。この際、初代相生の松は伐採された。
この戦乱のため、社頭も荒廃していたが、慶長9年(1604年)、池田輝政が姫路の藩主になった時、初代相生の松の根の上に社殿を移して修築した。
さらに江戸時代初期の寛永2年(1625年)、本多忠政が鐘楼を建立した。『播磨鑑』『播州名所巡覧図会』にも紹介され、司馬江漢や伊能忠敬、清川八郎なども来訪した。
名松林「尾上林」は、戦前には古松亭々としてそびえ、松林に毎年春・秋になるとできるキノコ「松露」の産地として知られた。
また、長寿延命の「寿命餅」は、当社の名物として賞味された。
大正13年(1924年)には三代目尾上の松が天然記念物に指定されたが、昭和24年(1949年)に松食虫のため枯死した。現在尾上の松は五代目で、樹齢約100年とされる。
他に、都恋しき片枝の松と呼ばれる松がある。神功皇后の後を慕って、枝葉ことごとく東に向って張ったといわれるもの。現在は三代目。
以下の古歌に詠まれた天下に名高い朝鮮鐘で、国の重要文化財に指定されている「尾上の鐘」がある。
昔、ある海賊がこの釣鐘を船に積み込み盗もうとした。足摺岬まで船で運んだ時、急な大嵐になり、沈没しそうになった。
これは神罰だと、畏れ慌てた海賊は、釣鐘を海に投げ込んだ。すると海はみるみる静かになった。しかし、近辺の海では、夜中になると海中が光るようになった。
その明かりによって漁ができなくなってしまった猟師は当地の識者に相談したところ、この釣鐘を引き上げることにした。この時にできたとされるひび割れが今も残る。
この釣鐘は一度、高野山に奉納された。しかし、この鐘を鳴らすたびに、「おのえへ、いのー。おのえへ、いのー」と聞こえたため、当社に返されたという。
例祭は9月30日。秋祭りが10月第2土・日曜日で、7月30日・31日には夏祭りがあり、行燈を150基燈す。
1月13日には、「ワーワーの頭」と呼ばれる神事が伝わっている。神功皇后よりも先立つ、第12代景行天皇が当地に行幸した際の遺風を伝えるものだという。
松林の一定の場所に白幣を立て、祭場を設けて、神饌を供し、祭典を行う。往時は神輿が頭人の家に入り、村内を一巡したとも。
なお、当社は旧加古郡において、毎年春、3月末から5月初頭のいずれかに行われる臨時の祭り、国恩祭を行う神社の一社。
また、当社は播磨町の阿閇神社などを兼務している。
【ご利益】
海上安全、交通安全、武運長久・勝運、夫婦和合(公式HP)
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[電話]079-424-8125
尾上神社(おのえじんじゃ)は、兵庫県加古川市尾上町長田にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
昔、神功皇后が三韓征伐の途上、住吉大明神が海上を守護したため、皇后は凱旋に際して、当地に上陸した。
しかし、霖雨が降り続いて軍を進めることができなかった。そこで、皇后は「鏡の池」で斎戒沐浴して当社を鎮祭し、晴を祈願したという。
以後、軍神として、また、海上の守護神として舟人の参詣が多かったという。御祭神は、住吉大明神で、底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神と、息長足姉命の総称。
『播磨風土記』に「昔大帯日子命、幸行別媛之處、道辺有長田、刺云、長田哉、故日長田里」とあり、この長田は当社地周辺と考えられている。
古くから発達した土地で、「高砂」という地名は、昔この辺一帯の総称で、当社はいわゆる「高砂の尾上」といわれ、古歌・謡曲にも「高砂の尾上云々」と謳われた。
醍醐天皇(在位:897年-930年)の御代、肥後国阿蘇宮の神官、友成が上京、その際に当社に参拝し、相生の松を探し求めた。
その際、尉姥二神が顕れ、夫婦睦まじく、歳久しく、住んだという。この目出度い古説は、口伝され、丹青に画かれ、詩歌に詠まれた。
境内には、謡曲『高砂』に謡われた、相生霊松「尾上の松」がある。 相生の松とも称されたこの尾上の松は、古来から様々な歌に詠まれてきた。
隆正一つの根から男松(黒松)・女松(赤松)が育つ喜瑞は当社の象徴となった。ちなみに、高砂市の高砂神社にも、『高砂』の松だとされるものが伝わる。
一木かと 見れば二木を 二木かと 見れば一木を 雌雄のこの松
豊臣秀吉の中国征伐、いわゆる三木城攻めの際、毛利・小早川・吉川の軍勢がこの海岸に上陸して陣を敷いた。この際、初代相生の松は伐採された。
この戦乱のため、社頭も荒廃していたが、慶長9年(1604年)、池田輝政が姫路の藩主になった時、初代相生の松の根の上に社殿を移して修築した。
さらに江戸時代初期の寛永2年(1625年)、本多忠政が鐘楼を建立した。『播磨鑑』『播州名所巡覧図会』にも紹介され、司馬江漢や伊能忠敬、清川八郎なども来訪した。
名松林「尾上林」は、戦前には古松亭々としてそびえ、松林に毎年春・秋になるとできるキノコ「松露」の産地として知られた。
また、長寿延命の「寿命餅」は、当社の名物として賞味された。
大正13年(1924年)には三代目尾上の松が天然記念物に指定されたが、昭和24年(1949年)に松食虫のため枯死した。現在尾上の松は五代目で、樹齢約100年とされる。
他に、都恋しき片枝の松と呼ばれる松がある。神功皇后の後を慕って、枝葉ことごとく東に向って張ったといわれるもの。現在は三代目。
以下の古歌に詠まれた天下に名高い朝鮮鐘で、国の重要文化財に指定されている「尾上の鐘」がある。
千載集神功皇后が三韓征伐から凱旋の際、持って帰って当社に奉納した、とされるが、実際は新羅朝時代のもので、10世紀前後の作。
高砂の 尾上の鐘の 音すなり 暁かけて 霜や置くらん
昔、ある海賊がこの釣鐘を船に積み込み盗もうとした。足摺岬まで船で運んだ時、急な大嵐になり、沈没しそうになった。
これは神罰だと、畏れ慌てた海賊は、釣鐘を海に投げ込んだ。すると海はみるみる静かになった。しかし、近辺の海では、夜中になると海中が光るようになった。
その明かりによって漁ができなくなってしまった猟師は当地の識者に相談したところ、この釣鐘を引き上げることにした。この時にできたとされるひび割れが今も残る。
この釣鐘は一度、高野山に奉納された。しかし、この鐘を鳴らすたびに、「おのえへ、いのー。おのえへ、いのー」と聞こえたため、当社に返されたという。
例祭は9月30日。秋祭りが10月第2土・日曜日で、7月30日・31日には夏祭りがあり、行燈を150基燈す。
1月13日には、「ワーワーの頭」と呼ばれる神事が伝わっている。神功皇后よりも先立つ、第12代景行天皇が当地に行幸した際の遺風を伝えるものだという。
松林の一定の場所に白幣を立て、祭場を設けて、神饌を供し、祭典を行う。往時は神輿が頭人の家に入り、村内を一巡したとも。
なお、当社は旧加古郡において、毎年春、3月末から5月初頭のいずれかに行われる臨時の祭り、国恩祭を行う神社の一社。
また、当社は播磨町の阿閇神社などを兼務している。
【ご利益】
海上安全、交通安全、武運長久・勝運、夫婦和合(公式HP)
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