住吉大社の荘園、赤松氏の崇敬、江戸中期の珍しい4棟西向き本殿
[住所]兵庫県加古郡播磨町本荘4-11-21
[電話]079-435-2918

阿閇神社(あえじんじゃ)は、兵庫県加古郡播磨町本荘にある神社。近代社格では郷社。現在は尾上神社の兼務神社である。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。底筒男命中筒男命表筒男命のいわゆる住吉三神と、息長帯姫命(神功皇后)を祀る。

阿閇荘は中世に住吉大社の荘園として存在しており、周辺地域に住吉神社が多数立地している。

奈良時代の天平3年(731年)『住吉大社神代記』に記されている賀胡郡阿閇津浜の中心地にあたると考えられる。「阿閇社」「阿閇神」とある。

阿閇荘は、周辺の住吉神社の立地や古文書などから、現在の播磨町全域だけでなく加古川市南東部の別府町・平岡町の大半を含む地域であったと考えられている。

当地は『播磨国風土記』に「阿閇の津」と記され、昔から瀬戸内海交通の盛んな港だった。海上守護神の観点からも、住吉神は相性がよかった。

村上天皇の第七皇子一品具平親王の六世孫で、赤松氏の祖である従三位侍従大納言源季房朝臣が、平安時代の天永2年(1111年)に加古郡に下向した。

播磨の守護職兼西征将軍に就いたためで、大内村に移住したもの。源季房は、この阿閇ノ庄住吉大明神を信仰し、国家安泰を祈願したと伝わる。

後に、赤穂郡赤松庄に白旗城を築き居城としたと伝わるが、『赤松盛衰記』によれば、赤松家の祈願所として代々深く崇敬されたという。

江戸時代になり、姫路藩主池田輝政が社領10石を寄進し、京都所司代板倉伊賀守がこれを安堵したという。

明治7年(1874年)、郷社に列した。例祭は10月23日に近い土・日曜日で、秋祭り。例年、明石市二見町の御厨神社と同日に開催される。

土曜日は各地区(自治会)内で、子供みこしの運行や本荘では屋台の地区内運行が行われる。

日曜日は、各地区から氏子が集まり、子供みこしの奉納の後、本荘地区の自治会共同で担ぐ屋台一台とすべての地区で持ち回りの当番にあたった地区が担ぐ神輿が出る。

屋台と神輿は神社から西へ数百メートル離れた御旅所まで巡行し、神事を行う。

当社の秋祭りは屋台が一台しかなく、練り合わせも行えないため、子供みこしが出ている時間帯の方が人が多く賑やか。

しかし、少なくとも江戸時代中期から続く長い歴史ある祭りで、18世紀前後の『阿閇神社祭礼絵巻』には、みこしや太鼓を担いだ人が列を成して当社から海に向かって巡行している様子が描かれている。

なお、当社は旧加古郡において、毎年春、3月末から5月初頭のいずれかに行われる臨時の祭り、国恩祭を行う神社の一社。

当社の本殿は、江戸時代中期の元禄2年(1702年)建立で、何度かの修理を経ている。一間社春日造、檜皮葺の同形・同規模の殿宇が西向きに南北線上に4棟並ぶ。

西向きなのは、住吉大社を見習った、あるいは赤松氏の居城白旗城に向いて建立されたため、などともされる。

本殿4棟に相対して、左(北)から一宮(表筒男命)、二宮(中筒男命)、三宮(底筒男命)、四宮(息長帯姫命)が祀られている。

4棟いずれも正面を廊橋で結ぶ形式をとっており、特に四社が軒を近接して一直線に並立する位置は、住吉大社とも違い、他に類似例が少ない。県指定文化財。

境内社に阿閇恵美須神社(事代主命三穂須須美命)がある。戦後、当地域の海岸線が埋め立てられ、一大工業地帯に発展、その繁栄を願い、昭和40年(1965年)、島根県の美保関神社を勧請したもの。

1月9・10日には十日戎が行われる。氏子地域では前もってお花代を出した家には、くじ引き券が配られ、当日参拝した後にお札(ふだ)とともに、その場でくじ引きをして、商品をもらう。

また、2日間ともに数回にわけて餅まきが行われ、そのお餅をもらいに多くの参拝客が訪れ、境内に子供を多く含む歓声が響き渡る。

他に、本殿裏手の小道を挟んだ向かいには、稲荷神社がある。

【ご利益】
交通安全、安産、子育て、身体壮健
阿閇神社 兵庫県加古郡播磨町本荘
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