平安期に終わりを勧請したお天王さん、晴明の巡遊と火防のご利益
[住所]福井県福井市西木田2-6-27
[電話]0776-35-1755

木田神社(きだじんじゃ)は、福井県福井市西木田にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、本社の他、境内社の晴明神社のものも含め、御朱印を頂ける。

社伝によれば、平安時代の貞観13年(871年)、奈良興福寺領で、山奥・木田・花堂・板垣・下馬からなる木田荘の総社的存在として、創建された。

一説には貞観12年(870年)ともいわれるが、創建にあたっては、御神託により、時の越前国主、尾張国津島神社より勧請した。

平安時代末期の保元2年(1157年)、越前国内の暴徒を鏡圧した押領使、林光明が崇敬し、社殿を寄進したという。

しかし、安土桃山時代の天正10年(1582年)8月、火災により焼失。慶長7年(1602年)3月、再建された。

その後も社殿大破はあったが、江戸時代中期の享保12年(1727年)9月に再建された。

中世以降、神仏習合により、牛頭天王を奉斎する疫病退散の祈祷所だったが、明治の神仏分離により、木田天王宮と呼ばれていたものを氷川神社に改称した。

明治8年(1975年)12月、郷社に列し、明治10年(1977年)3月には現社号に改称した。しかし、今でも旧来の「お天王さん」として親しまれている。

昭和23年(1948年)6月の福井大震災によって、本殿を除く他の建造物が大破、享保12年来の社殿が失われたが、昭和29年(1954年)に再建された。

現在までに御祭神は、建速須佐之男尊稲田姫命。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。また、泉丸皇子(せんまるおおじ)を合祀している。

泉丸皇子は、奈良時代、聖武天皇の皇子で、病弱のため、現在の市内月見町にあたる木田村赤坂で療養していたが、その地で亡くなり、小祠に祀られていたものを当社が合祀した。

例祭は5月14日-16日で、春季例大祭、鎮火祭。古来より、橋南第一の縁日として多数の露店が並び、「橋南っ子」の風物詩の一つ。

出店の他に昭和31年(1956年)に建てられ、平成6年(1994年)に新社務所とともに改築された氏子会館で、旅芸能が披露される。また、稚児行列が行われる場合がある。

社伝によれば、奈良時代の養老年間(717年-723年)、越前国に下向した紀伊国の武将湯浅氏が、現在の山奥町にあたる木田郷山奥に草庵を結んだ。

そこで、本国より持ってきた家宝の猿田彦大神の面、獅子頭を石の唐植に納め、山際に埋めたのを、後に木田天王宮に奉安せよという霊夢を見て、当社に奉納した。

そのため、例祭では「里帰り」と称して、まず湯浅家に御渡りがある。また、当初埋蔵された伝承地も現存している。ただし、養老年間というのは少し信じがたい。

10月第1土・日曜日が秋季例祭で、7月第4日曜日には福井祇園祭りがある。2月3日が節分祭で、豆まきが行われる。1月15日が左義長祭で、どんど焼き。

境内には、稲荷神社と、安倍晴明を祀る晴明神社がある。平安時代の天徳4年(960年)、晴明が北陸道を巡遊したという伝承が残る。

当社前で日が暮れて、適当な宿舎も見つからず、民家に一宿を乞いたところ、快諾されたという。その民家があったところが、北陸銀行木田支店の南西角に相当するという。

翌朝の出立に際し、清明はお礼に火伏の呪法を厳修した。これにより、明治33年(1900年)の橋南大火、詳細不詳の羽入火事、昭和20年(1945年)の空襲も難をまぬがれたという。

大正末期(1925年-1926年)、京都市上京区堀川町から御分霊を迎え、当社の晴明神社が創建された。昭和30年(1955年)9月26日、社殿が造営された。

なお、当社は越知神社などを兼務している。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、火防(公式HP
木田神社 福井県福井市西木田
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