大津遷都の際に創祀、平安期から続く綱打祭、境内に馬神神社が鎮座
[住所]滋賀県大津市三井寺町4-1
[電話]077-522-4411

長等神社(ながらじんじゃ)は、滋賀県大津市三井寺町にある神社。近代社格では県社御朱印の有無は不明。

天智天皇6年(667年)、天皇が近江大津宮へ遷都した際、都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に祀られたのが始まりである。

天智天皇8年(669年)5月5日、天皇が宇治山科から帰途、当社に弓矢を奉納、これにより天皇の御孫にあたる大友与多王がその日を祭日と定めた。

平安時代の貞観2年(860年)2月、三井寺一山を開祖した智証大師(円珍)が日吉山王神を勧請し、一山の守護神として奉斎、新日吉社または新宮社と称するようになった。

天喜2年(1054年)4月、現在の地に遷宮し、その地を神出と称するようになった。永保元年(1081年)4月には白河天皇が勅使を参向し、平安を祈願した。

当社は日吉本宮とも並び称され、12の廻廊もあり、湖南の大社として隆盛を極めたが、山門・寺門の衆徒の闘争により、たびたび兵火にかかった。

鎌倉幕府が宇津宮蓮生に命じて、本殿・拝殿・楼門などを再興したが、やはり再び灰燼と化した。南北朝時代の興国元年(1340年)、足利尊氏により社殿などが再建された。

江戸時代初期の寛文11年(1671年)、社殿の大修理が行われ、天明(1781年-1789年)・寛政(1789年-1801年)にやはり社殿が修理された。

本殿に関しては棟札4枚が保存され、その最古の棟札は明応4年(1495年)、次で文化9年(1812年)、天保7年(1837年)がある。

本殿内に6個の釣燈籠が下げられているが、その一つに万治元年(1658年)の銘がある。また、鎌倉末期作の木像薬師如来座像と、室町初期作の木像如竟輪観音坐像が伝わる。

明治16年(1883年)、現在の社号に改称し、明治37年(1904年)には和様建築の粋を取り入れて現在の楼門を復興した。朱色が鮮やかで、当社のシンボル。

明治43年(1910年)1月、県社に列した。昭和47年(1972年)7月1日には楼門が中世の優れた社寺建築様式の再現を評価され、市指定文化財の指定を受けた。

現在までに当社の主祭神は、建速須佐之男大神・大山咋大神市杵島姫大神宇佐若宮下照姫大神八幡大神。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。

例祭は上述の通り、現在も5月5日に行われている。1月14日には綱打ち神事がある。当社所蔵「古式綱打神事之画」の箱蓋裏書に延長6年(928年)には行われていたとある。

この神事は小正月を迎えるにあたり、藁蛇を30束造り、頭を神前に向けて祭り、これに託して氏子の町々から邪悪の霊を除き、1年の生活の平安と豊穣を祈るものである。

この綱打祭では、その尾を踏むことによって蛇に災厄を託し、後に境内で燃やす。かつては蛇の尾は1本ではなく、各町から15人ほどが参加し、1本ずつ長さを競争したという。

境内社には、稲荷神社四社三宇・馬神神社・両御前神社・笠森神社がある。特に馬神神社が有名で、馬の守護神として、今も篤く崇敬されている。

もとは大津東町に鎮座していた馬神神社は、古くより旅人、諸人は道中の馬の無事、安全が祈願された。明治34年(1901年)、当社境内に遷座した。

最近においては競馬、乗馬関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣が増えているという。妖怪「馬魔」(ぎば)を連想させ、妖怪除けのご利益もあるという。

10月17日には馬神まつりがある。江戸時代前期の寛永年間(1624年-1643年)に疫病が流行し、多くの牛馬が病死したため、吉田神社を勧請したことに始まる。

馬の安全を祈願し、馬小屋の護符や「大津東町馬神」と染め抜いた馬の腹掛などで知られる。

他に境内には、かつらの御神木や、紅しだれ八重桜、回廊入口の両脇に紅白の梅があり、シーズンには参拝客の目を楽します。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、「馬」の守護神(公式HP
長等神社 滋賀県大津市三井寺町
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長等神社 滋賀県大津市三井寺町の御朱印