楠木七城の鎮守、室町期本殿が現存して重文、10月にだんじり奉納
[住所]大阪府河内長野市喜多町305
[電話]0721-63-0027
烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)は、大阪府河内長野市喜多町にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
烏帽子形山には楠木七城(河内七城)の一つとされる烏帽子形城という城があった。楠小二郎がこれに拠り、城の鎮護として創祀されたのが当社の起源。
御祭神は、素盞鳴命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇。当社やその一帯は現在、烏帽子形城跡として、国の史跡に指定されており、当社の西方には城跡碑がある。
その後暫く荒廃していたが、室町時代の文明12年(1480年)に、河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した。
これは昭和40年(1965年)の解体修理時に、棟札・棟束から発見された墨書による。その後度々修理などはされたが、これが現存社殿のもとになっている。
入母屋造檜皮葺。桁行3間、梁間2間、身舎柱は円柱とし、側面後端に脇障子を設け、木部は朱塗りとする。
正側面三方に縁を設け、擬宝珠付き高欄をめぐらす。向拝は3間の総向拝で、中央に5段の木階を造り、浜床が付く。現在、国の重要文化財に指定されている。
江戸時代になると再度荒廃した。江戸時代初期の元和3年(1617年)、楠木一族の後裔とされる甲斐荘喜右衛門正保が、大阪四天王寺の普請奉行を勤めた。
その竣工後に自身の居城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、その余材で改修したという。元和8年(1622年)8月に竣工した。
境内には、正保寺、特寿院と称する天台宗の宮寺があり、もとは高福寺と呼ばれ、本尊に釈迦と聖観音を祀っていた。
高福寺は、楠木正成の信仰が篤く、大般若経の転讀を行い、後村上天皇が賊難を吉野に避けた際、特に同寺の梵鐘を持ち運んだと伝わる。
この梵鐘は「河内国高福寺鐘康永元年(1342年)癸午八月楠氏奉献」の由来が刻まれており、今も奈良県賀名生の堀家に所蔵されている。
寛永年間(1624年-1642年)から、徳川将軍の命で、徳寿院は観心寺の榎本院、経蔵院、五智院、理趣院、心王院、威徳院、真福院の衆中より、当社で天下泰平の祈願が行われた。
僧衆5人宛6人によるもので、正月、5月、9月に永代般若経の転讀を行ったが、この経巻は楠木氏一族の寄付により、今は観心寺に所蔵されている。
明治初年(1868年)、神仏分離により宮寺が廃絶となり、明治5年(1868年)に村社に列した。
明治40年(1903年)10月19日、「村社廃合」により当時の南河内郡三日市村大字小塩字宮山に鎮座の小塩八幡神社を合祀した。
明治41年(1904年)12月には神饌幣帛料供進社に指定された。現在も上田・喜多・小塩・楠ヶ丘・大師町の氏神として崇敬されている。
例祭は10月10日。10月体育の日の前々日には小塩・喜多・上田順でそれぞれの氏子区が地車(だんじり)を奉納し、五穀豊穣・無病息災を祈願する。
境内末社に、美保神社の御分霊を勧請した恵比須社(例祭:1月7日)、白山社、平野社、伏見稲荷大社の御分霊を勧請した稲荷社がある。
本殿の向かいには、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」があった。
しかし、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の命を全うした。現在はその輪切りにされたものが境内に納められている。
また、本殿の横には、南朝皇族の末裔とされる忠尊王が戦勝記念に参拝した時、腰を掛けたと伝わる御座石がある。
なお、伝承では、当烏帽子形山には第15代応神天皇の別宮があったといい、山嶺は殿閣のあった跡ともいわれている。
また、京都の石清水八幡宮の例祭放生会の放魚の儀は、当社により川に放魚を行なった時が初めとするとも言われている。
【ご利益】
武運長久・勝運、厄災除け、安産
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烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)は、大阪府河内長野市喜多町にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
烏帽子形山には楠木七城(河内七城)の一つとされる烏帽子形城という城があった。楠小二郎がこれに拠り、城の鎮護として創祀されたのが当社の起源。
御祭神は、素盞鳴命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇。当社やその一帯は現在、烏帽子形城跡として、国の史跡に指定されており、当社の西方には城跡碑がある。
その後暫く荒廃していたが、室町時代の文明12年(1480年)に、河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した。
これは昭和40年(1965年)の解体修理時に、棟札・棟束から発見された墨書による。その後度々修理などはされたが、これが現存社殿のもとになっている。
入母屋造檜皮葺。桁行3間、梁間2間、身舎柱は円柱とし、側面後端に脇障子を設け、木部は朱塗りとする。
正側面三方に縁を設け、擬宝珠付き高欄をめぐらす。向拝は3間の総向拝で、中央に5段の木階を造り、浜床が付く。現在、国の重要文化財に指定されている。
江戸時代になると再度荒廃した。江戸時代初期の元和3年(1617年)、楠木一族の後裔とされる甲斐荘喜右衛門正保が、大阪四天王寺の普請奉行を勤めた。
その竣工後に自身の居城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、その余材で改修したという。元和8年(1622年)8月に竣工した。
境内には、正保寺、特寿院と称する天台宗の宮寺があり、もとは高福寺と呼ばれ、本尊に釈迦と聖観音を祀っていた。
高福寺は、楠木正成の信仰が篤く、大般若経の転讀を行い、後村上天皇が賊難を吉野に避けた際、特に同寺の梵鐘を持ち運んだと伝わる。
この梵鐘は「河内国高福寺鐘康永元年(1342年)癸午八月楠氏奉献」の由来が刻まれており、今も奈良県賀名生の堀家に所蔵されている。
寛永年間(1624年-1642年)から、徳川将軍の命で、徳寿院は観心寺の榎本院、経蔵院、五智院、理趣院、心王院、威徳院、真福院の衆中より、当社で天下泰平の祈願が行われた。
僧衆5人宛6人によるもので、正月、5月、9月に永代般若経の転讀を行ったが、この経巻は楠木氏一族の寄付により、今は観心寺に所蔵されている。
明治初年(1868年)、神仏分離により宮寺が廃絶となり、明治5年(1868年)に村社に列した。
明治40年(1903年)10月19日、「村社廃合」により当時の南河内郡三日市村大字小塩字宮山に鎮座の小塩八幡神社を合祀した。
明治41年(1904年)12月には神饌幣帛料供進社に指定された。現在も上田・喜多・小塩・楠ヶ丘・大師町の氏神として崇敬されている。
例祭は10月10日。10月体育の日の前々日には小塩・喜多・上田順でそれぞれの氏子区が地車(だんじり)を奉納し、五穀豊穣・無病息災を祈願する。
境内末社に、美保神社の御分霊を勧請した恵比須社(例祭:1月7日)、白山社、平野社、伏見稲荷大社の御分霊を勧請した稲荷社がある。
本殿の向かいには、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」があった。
しかし、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の命を全うした。現在はその輪切りにされたものが境内に納められている。
また、本殿の横には、南朝皇族の末裔とされる忠尊王が戦勝記念に参拝した時、腰を掛けたと伝わる御座石がある。
なお、伝承では、当烏帽子形山には第15代応神天皇の別宮があったといい、山嶺は殿閣のあった跡ともいわれている。
また、京都の石清水八幡宮の例祭放生会の放魚の儀は、当社により川に放魚を行なった時が初めとするとも言われている。
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