謎多き奥宮、人身御供を連想させる奇習、赤穂浪士の子孫寄進の鳥居
[住所]大阪府寝屋川市木屋町10-25
[電話]072-831-1550 - 蹉跎神社
鞆呂岐神社(ともろぎじんじゃ)は、大阪府寝屋川市木屋町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
平安時代前期、清和天皇の貞観3年(861年)の勧請だという。もとは天照大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・稲荷大神・蔵王権現を祀った。
6柱の神を祀る六社大明神と称されたが、御祭神については、時代の移り変わりによって、変動がある。ただ、いずれにせよ6柱に固執する傾向が見て取れる。
まず、稲荷大神を末社として分離したため、代わりに神功皇后を御祭神に加えたという。明治の神仏分離に際しては、蔵王権現に代わり、豊受大神を奉斎した。
明治期の資料などには、住吉大神を底筒男命・中筒男命・表筒男命と、分けて記載しているものもあるが、こうすると、6柱とはならなくなる。
また、蔵王権現を奉斎し続けたのか、やはり明治期の資料では、安閑天皇の名がある場合がある。
整理すると、現在の御祭神は、天照大神・豊受大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・息長足姫大神となる。
神前の石灯籠は幕末の慶応2年(1866年)、西尾座中から奉献されたもの。
拝殿前の大きな石灯篭は二十か用水樋の水源にある水の神として、用水掛の各村から文久3年(1863年)9月に寄進されたもの。
当社の場合、奥宮として若宮八幡社(誉田別命)があり、こちらに色々な由緒が伝わる。大正3年(1914年)、合祀したというが、古くから当地に鎮座していたという。
まず、奥宮の鳥居。寄進された事情が明記されている。それによれば、赤穂浪士の村松喜兵衛秀直の四世孫、村松喜兵衛源尚次による寄進。
討ち入り後、縁者は捕らえられ、秀直の子である政右衛門は伊豆大島に配流されたが、4代将軍徳川家綱の法要を機に赦免されたので、木屋村に移り住んだという。
また、この奥宮には独特の神事が伝わる。「木屋のヒトミ祭」と呼ばれ、毎年10月17日の祭礼に、薦巻飯(こもまきめし)を供進する。
米の粉を水でとき、ツバキの葉の上に乗せたもの、こも巻きの蒸し飯をツバキの葉の上に乗せたものともされる。
他に魚のカマスを添えて本社に6本、奥宮である若宮に1本を供えたとも。
奥宮に供える際、昔は、妙齢の処女が行っていたという。江戸時代後期の寛政年間(1789年-1801年)には里正(村長)が、明治後は氏子総代が行うようになった。
奥宮の後方は今わずかに小さな池を残すだけのたんぼになっているが、もとは赤井堤防の辺まで一帯に大きな池であった。
この池の主は大きな蛇で、奥宮の御神体だといわれている。この大きな蛇は遠く大和境の田原辺まで出没したと伝えられた。
人に害するのを恐れて、もとは本当に人身御供が行われていたのかもしれない。それが妙齢の処女による供進という穏便な形になったものか。
いつしか、人身御供の風習を振り切る必要が出て、供進者をより穏便に、過去の風習を分からなくさせたものなのかもしれない。
ただ、祭りの名には「ヒトミ」と残っているが。木屋のへび祭りとも呼ばれ、へびは『古事記』の時代より美女好きで知られる。
この祭礼の日にはいつも雨が降るとも、マラリアのような疫病「オコリ」を治癒してくれるとも伝わる。現在は、「茨田蛇の池の址」という石碑があるという。
この他、往時には10月の祭礼において、「ねりこみ」と呼ばれる行事があった。
6人の男がそれぞれ立派な飾りのついた大提灯を長い棒の先につけて1本ずつ持ち、伊勢音頭の「やーとこせ」を唄いながら、お宮から南へ一直線に馬場前橋まで往復した。
この大提灯は、よほどの力持ちでないと重くて持つことができないので、力自慢のものが選ばれた。また、にわか・おどり・まんざい・獅子舞など素人芸の催しもあった。
なお、当社から南東に2キロほど、170号線と京阪本線の線路を越えた先に友呂岐神社という、当社と同音異字の神社がある。
当社と友呂岐神社に特段の関連性は見いだせないが、「鞆呂岐」と「友呂岐」は全く同じ意味。
当地は、古代から皇室の荘園で、当地とゆかりの深い応神天皇は大鞆別命といい、鞆は天皇の立派な姿の形容、呂岐は神を表す。
当地は応神天皇の子にあたる仁徳天皇が、茨田の屯倉を置き、皇室の別荘が営まれた所で、御所山と呼ばれた。
【ご利益】
地域安全、平穏安寧、開運招福、五穀豊穣・商売繁盛
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[電話]072-831-1550 - 蹉跎神社
鞆呂岐神社(ともろぎじんじゃ)は、大阪府寝屋川市木屋町にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
平安時代前期、清和天皇の貞観3年(861年)の勧請だという。もとは天照大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・稲荷大神・蔵王権現を祀った。
6柱の神を祀る六社大明神と称されたが、御祭神については、時代の移り変わりによって、変動がある。ただ、いずれにせよ6柱に固執する傾向が見て取れる。
まず、稲荷大神を末社として分離したため、代わりに神功皇后を御祭神に加えたという。明治の神仏分離に際しては、蔵王権現に代わり、豊受大神を奉斎した。
明治期の資料などには、住吉大神を底筒男命・中筒男命・表筒男命と、分けて記載しているものもあるが、こうすると、6柱とはならなくなる。
また、蔵王権現を奉斎し続けたのか、やはり明治期の資料では、安閑天皇の名がある場合がある。
整理すると、現在の御祭神は、天照大神・豊受大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・息長足姫大神となる。
神前の石灯籠は幕末の慶応2年(1866年)、西尾座中から奉献されたもの。
拝殿前の大きな石灯篭は二十か用水樋の水源にある水の神として、用水掛の各村から文久3年(1863年)9月に寄進されたもの。
当社の場合、奥宮として若宮八幡社(誉田別命)があり、こちらに色々な由緒が伝わる。大正3年(1914年)、合祀したというが、古くから当地に鎮座していたという。
まず、奥宮の鳥居。寄進された事情が明記されている。それによれば、赤穂浪士の村松喜兵衛秀直の四世孫、村松喜兵衛源尚次による寄進。
討ち入り後、縁者は捕らえられ、秀直の子である政右衛門は伊豆大島に配流されたが、4代将軍徳川家綱の法要を機に赦免されたので、木屋村に移り住んだという。
また、この奥宮には独特の神事が伝わる。「木屋のヒトミ祭」と呼ばれ、毎年10月17日の祭礼に、薦巻飯(こもまきめし)を供進する。
米の粉を水でとき、ツバキの葉の上に乗せたもの、こも巻きの蒸し飯をツバキの葉の上に乗せたものともされる。
他に魚のカマスを添えて本社に6本、奥宮である若宮に1本を供えたとも。
奥宮に供える際、昔は、妙齢の処女が行っていたという。江戸時代後期の寛政年間(1789年-1801年)には里正(村長)が、明治後は氏子総代が行うようになった。
奥宮の後方は今わずかに小さな池を残すだけのたんぼになっているが、もとは赤井堤防の辺まで一帯に大きな池であった。
この池の主は大きな蛇で、奥宮の御神体だといわれている。この大きな蛇は遠く大和境の田原辺まで出没したと伝えられた。
人に害するのを恐れて、もとは本当に人身御供が行われていたのかもしれない。それが妙齢の処女による供進という穏便な形になったものか。
いつしか、人身御供の風習を振り切る必要が出て、供進者をより穏便に、過去の風習を分からなくさせたものなのかもしれない。
ただ、祭りの名には「ヒトミ」と残っているが。木屋のへび祭りとも呼ばれ、へびは『古事記』の時代より美女好きで知られる。
この祭礼の日にはいつも雨が降るとも、マラリアのような疫病「オコリ」を治癒してくれるとも伝わる。現在は、「茨田蛇の池の址」という石碑があるという。
この他、往時には10月の祭礼において、「ねりこみ」と呼ばれる行事があった。
6人の男がそれぞれ立派な飾りのついた大提灯を長い棒の先につけて1本ずつ持ち、伊勢音頭の「やーとこせ」を唄いながら、お宮から南へ一直線に馬場前橋まで往復した。
この大提灯は、よほどの力持ちでないと重くて持つことができないので、力自慢のものが選ばれた。また、にわか・おどり・まんざい・獅子舞など素人芸の催しもあった。
なお、当社から南東に2キロほど、170号線と京阪本線の線路を越えた先に友呂岐神社という、当社と同音異字の神社がある。
当社と友呂岐神社に特段の関連性は見いだせないが、「鞆呂岐」と「友呂岐」は全く同じ意味。
当地は、古代から皇室の荘園で、当地とゆかりの深い応神天皇は大鞆別命といい、鞆は天皇の立派な姿の形容、呂岐は神を表す。
当地は応神天皇の子にあたる仁徳天皇が、茨田の屯倉を置き、皇室の別荘が営まれた所で、御所山と呼ばれた。
【ご利益】
地域安全、平穏安寧、開運招福、五穀豊穣・商売繁盛
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