南北朝期創祀の八幡、明治に合祀、徳川家康以来の御弓式行事を継承
[住所]大阪府寝屋川市香里本通町19-13
[電話]072-832-0300

友呂岐神社(ともろぎじんじゃ)は、大阪府寝屋川市香里本通町にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

室町時代の康正2年(1456年)、後土門天皇が北ノ小路新邸を当地に造営し、南に鎮護神として八幡宮を祀り、北に南無阿彌堂の伽藍を建立させたという。

この八幡宮が当社の前身。その後、応仁の乱、畠山義就と畠山政長による争いで、その八幡宮の社殿は焼失した。

その跡地に小社を建て、氏神として祀っていたが、やはりその後の兵火により焼失した。

安土桃山時代の天正5年(1577年)8月、当地の人々が社殿を再建し、氏神として崇拝し、近隣の人々は祈願所として参詣するようになったという。

江戸時代初期の寛永年間(1624年-1645年)に改築し、江戸時代前期の元禄初年(1688年)に修築された。

明治43年(1910年)、若山神社(三井神社/三井氏神社)、二本松神社(田井神社)、太間神社を合祀、地名により、現社号に改称したという。

若山神社は、平安時代前期の延喜元年(901年)、菅原道真が左遷の際、当地を通過の折に、三井本法寺(本巌寺)に宿舎して寺僧と親交を深めた。

道真が筑紫で薨去したことを知った当地の人々が相談し、壮観な社殿を造営して、若山に祀り、氏神としたもの。

南北朝時代の建武年間(1334年-1336年)、後醍醐天皇が吉野よりこの地に駕籠した際、宿舎を本法寺に定め、若山の社殿に親拝、萬壽殿の三字の勅額を下賜したという。

江戸時代初期の元和元年(1615年)、徳川家康が武運長久と五穀豊穣、悪魔退散を祈願し、その年の吉凶を占うために正月八日八つ時に御弓式行事を行った。

それを聞きつけた近郊の人々は、その恩恵を受けるために、当社に競って参詣したという。この御弓式行事が今に伝わる。

二本松神社は、道真左遷の時、この地を通過した折、手植の松が記念となり、樹下に一社を建て、道真の霊を祀って、氏神としたもの。

太間神社は、創建年代不詳ながら、第16代仁徳天皇11年、淀川左岸・太間地区の茨田堤構築で貢献した茨田連衫子(まんだむらじころもこ)を奉斎したものと伝わる。

以上の変遷を経て、現在当社の御祭神は、厄除け・安産の八幡様として誉田別尊(第15代応神天皇)、学問の天神様として菅原道真公、土木建築の神様として茨田連衫子となっている。

また、境内摂社に成願稲荷社(倉稲魂神)がある。下参道には福神として大黒様が鎮座し、御所水がある。大黒様の後ろに、清水が湧き出ている。

例祭は10月16日で、秋祭・秋の例大祭。1月上旬から中旬、現在は成人の日に、家康以来の伝統、「三井のお弓行事」が行われる。御弓式とも。

昔は、村役有力者の子弟が紋付・かみしも姿で弓を引いたが、現在では地元から選ばれた20才の男女の若者2人が引くようになっている。

弓は交互に2本ずつ3回、計12本の矢を射る。12本の矢は1年を意味し、矢の当たり具合で天候と豊凶を占う。現在は市指定文化財。

なお、当社から北西に2キロほど、京阪本線の線路と170号線を越えた先に鞆呂岐神社という、当社と同音異字の神社がある。

当社と鞆呂岐神社に特段の関連性は見いだせないが、「友呂岐」と「鞆呂岐」は全く同じ意味。

当地は、古代から皇室の荘園で、当地とゆかりの深い応神天皇は大鞆別命といい、鞆は天皇の立派な姿の形容、呂岐は神を表す。

当地は応神天皇の子にあたる仁徳天皇が、茨田の屯倉を置き、皇室の別荘が営まれた所で、御所山と呼ばれた。

【ご利益】
厄災除け、安産、学業・受験合格、産業振興、事業成功(公式HP
友呂岐神社 大阪府寝屋川市香里本通町
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友呂岐神社 大阪府寝屋川市香里本通町の御朱印