紀貫之が歌で神慮を鎮め、『枕草子』にも記載された古社
[住所]大阪府泉佐野市長滝814
[電話]072-465-0897
蟻通神社(ありとおしじんじゃ)は、大阪府泉佐野市長滝にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀は不詳だが、社伝によれば、第9代開化天皇の御宇、勧請されたという。御祭神は大国主命。蟻通明神とも呼ばれる。
平安時代になり、紀貫之が紀の国から引き揚げる道中、うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んだため、急に馬が倒れてしまうという神罰を受けた。
神の怒りを悟った貫之はとっさに下記の「有と星」と「蟻(有)通」を掛けた歌を詠み、神は心を和らげて馬を復活させたという。歌が神慮を鎮めるという歌徳説話。
そこに、老父の知恵を借りた中将が「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」方法を奏上した物語を紹介しており、これが「ありどほうしの神」の由来とし、下記の歌を掲載している。
鎌倉時代末期の正和5年(1316年)、『日根野村絵図』に「穴通社」とあるのが当社のこととされ、当時の長滝荘の中心的神社だったという。
能楽の大成者、世阿弥が、謡曲「蟻通」を作り、貫之の説話を能に取り上げることで、「蟻通」の名は一躍広まった。
戦国時代、長滝荘は根来寺政権下にあり、天正5年(1577年)、織田信長の雑賀攻めの戦火にかかり、当社は建物や宝物は焼失。
その後、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により再建された。江戸時代になると、長滝は岸和田藩領となった。
江戸時代前期の万治2年(1659年)、岸和田藩初代藩主岡部宣勝の命により、神宮寺宗福院が建立され、神職と社僧が祭祀する南泉州地域有数の神社となった。
歴代藩主の保護が厚く、時に社参して祈願し、数々の神宝・祭具・土地が寄進された。とりわけ、近在の村々を含めた南泉州地域の主な雨乞いの神として重宝された。
明治維新を経て、宮寺宗福院は廃寺となり、明治40年(1907年)以降、村内の神社を合祀、大正6年(1917年)に、村社から郷社に昇格した。
昭和17年(1942年)、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、当社も強制移転の対象となり、現在地に遷座した。
若者を戦地に出した後での移転作業は、極めて困難だったとの記録が残る。昭和19年(1944年)8月、遷座を完了したが、1年後に敗戦を迎えた。
昭和43年(1968年)、明治100年記念として、鳥居、弁財天社、仏足石、八百万の神などを整備し、また併せて紀貫之冠之渕を境内に整えた。
現在も宮座(敬老社人)が置かれ、「ありとおしさん」「おみやさん」と地元で親しまれ、和歌・能楽の関係者、歴史愛好家などの関心も高い。
例祭は10月で例大祭、秋祭り。地車祭とも呼ばれ、3台の地車(だんじり)が町内を曳行する。
境内には本殿・拝殿の他、舞殿・絵馬堂がある。参道には太鼓橋がかかり、移転50年記念碑や神社移転記念碑、忠魂碑、神馬像などがある。
境内社に、六社明神の他、弁財天社、足神神社があり、石祠の他、松影地蔵が祀られている。
なお、 なお、和歌山県の田辺市湊やかつらぎ町東渋田に同名の神社がある他、「蟻通神社(蟻通明神)」は奈良県吉野郡東吉野村の丹生川上神社の旧称でもある。
【ご利益】
国土開発・五穀豊穣・智恵・孝行の神(公式HP)
【関連記事】
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
[電話]072-465-0897
蟻通神社(ありとおしじんじゃ)は、大阪府泉佐野市長滝にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀は不詳だが、社伝によれば、第9代開化天皇の御宇、勧請されたという。御祭神は大国主命。蟻通明神とも呼ばれる。
平安時代になり、紀貫之が紀の国から引き揚げる道中、うっかりと蟻通明神の神域に騎馬のまま乗り込んだため、急に馬が倒れてしまうという神罰を受けた。
神の怒りを悟った貫之はとっさに下記の「有と星」と「蟻(有)通」を掛けた歌を詠み、神は心を和らげて馬を復活させたという。歌が神慮を鎮めるという歌徳説話。
かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをおもふべしやは清少納言『枕草子』では、貫之の話を伝えた後、孝子説話として、唐土より「七曲りの玉に糸を通す手段」の難題を吹きかけられた帝がいた。
そこに、老父の知恵を借りた中将が「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」方法を奏上した物語を紹介しており、これが「ありどほうしの神」の由来とし、下記の歌を掲載している。
七曲に まがれる玉の 緒をぬきて ありとほしとは 知らずやあるらん中世以前の文献資料には、「有通神社」とあるが、「玉に蟻を通す」難題説話と、中世熊野三山参詣の様子が「蟻の熊野詣」と評された熊野街道沿いに鎮座していたことにより、「蟻通」が定着していったと考えられている。
鎌倉時代末期の正和5年(1316年)、『日根野村絵図』に「穴通社」とあるのが当社のこととされ、当時の長滝荘の中心的神社だったという。
能楽の大成者、世阿弥が、謡曲「蟻通」を作り、貫之の説話を能に取り上げることで、「蟻通」の名は一躍広まった。
戦国時代、長滝荘は根来寺政権下にあり、天正5年(1577年)、織田信長の雑賀攻めの戦火にかかり、当社は建物や宝物は焼失。
その後、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により再建された。江戸時代になると、長滝は岸和田藩領となった。
江戸時代前期の万治2年(1659年)、岸和田藩初代藩主岡部宣勝の命により、神宮寺宗福院が建立され、神職と社僧が祭祀する南泉州地域有数の神社となった。
歴代藩主の保護が厚く、時に社参して祈願し、数々の神宝・祭具・土地が寄進された。とりわけ、近在の村々を含めた南泉州地域の主な雨乞いの神として重宝された。
明治維新を経て、宮寺宗福院は廃寺となり、明治40年(1907年)以降、村内の神社を合祀、大正6年(1917年)に、村社から郷社に昇格した。
昭和17年(1942年)、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、当社も強制移転の対象となり、現在地に遷座した。
若者を戦地に出した後での移転作業は、極めて困難だったとの記録が残る。昭和19年(1944年)8月、遷座を完了したが、1年後に敗戦を迎えた。
昭和43年(1968年)、明治100年記念として、鳥居、弁財天社、仏足石、八百万の神などを整備し、また併せて紀貫之冠之渕を境内に整えた。
現在も宮座(敬老社人)が置かれ、「ありとおしさん」「おみやさん」と地元で親しまれ、和歌・能楽の関係者、歴史愛好家などの関心も高い。
例祭は10月で例大祭、秋祭り。地車祭とも呼ばれ、3台の地車(だんじり)が町内を曳行する。
境内には本殿・拝殿の他、舞殿・絵馬堂がある。参道には太鼓橋がかかり、移転50年記念碑や神社移転記念碑、忠魂碑、神馬像などがある。
境内社に、六社明神の他、弁財天社、足神神社があり、石祠の他、松影地蔵が祀られている。
なお、 なお、和歌山県の田辺市湊やかつらぎ町東渋田に同名の神社がある他、「蟻通神社(蟻通明神)」は奈良県吉野郡東吉野村の丹生川上神社の旧称でもある。
【ご利益】
国土開発・五穀豊穣・智恵・孝行の神(公式HP)
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