慶長以前に創建、もとは妙見、後に天神、流山道と田中正造の演説
[住所]東京都足立区西保木間1-11-4
[電話]03-3883-0479

保木間氷川神社(ほきまひかわじんじゃ)は、東京都足立区西保木間にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

この地域一帯は、伊興地区に次いで早く開け、古墳時代の土師器や鎌倉時代以降の板碑などが多く出土している。

平安時代末から鎌倉時代にかけて発展し、保木間の地名は、平安時代末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。

当社の創建年代は不詳。

当社前を東西に通る流山道が戦国時代以前に成立しており、慶長年間(1596年-1615年)以前に宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられている。

当地に千葉氏の陣屋跡があり、妙見社が祀られ、後に天神を祀る菅原神社となった、そのため隣接の当社別当だった宝積院は、その山号を北斗山(北當山)と称するという。

千葉氏といえば、千葉神社、妙見信仰で知られるため、説得力がある。

江戸の昔から流山道と呼ばれた当社前の古道は、当地の保木間で日光道中から分かれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。

この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。

なお、沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。

当社について、『新編武蔵風土記稿』保木間村の条にも「天神社」とある。そこには「末社。稲荷社、疱瘡神社」とあるが、現在の境内社は、稲荷神社・榛名神社。

ただ、江戸時代より保木間を含め、竹塚・伊興の鎮守は伊興氷川神社であり、明治初年(1868年)、当社も伊興氷川神社に合祀されたという。

明治5年(1872年)、伊興氷川神社から独立し、村社に列した。その際、現社号に改称した。現在までに、御祭神は須佐之男命豊受姫命菅原道真

明治31年(1898年)9月、群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡などの足尾銅山鉱毒の被害住民3000人が被害を訴えるため上京した。

当時東京府南足立郡淵江村だった当地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中、憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎えた。

こうした被害住民への支援は、淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。

被害問題に取り組んでいた、当時衆議院議員だった田中正造は9月28日、被害住民と当社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。

この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。なお、田中正造は現在、栃木市藤岡町の田中霊祠で祀られている。

当社の例祭は9月15日。7年に一度、大祭が行われる。

【ご利益】
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保木間氷川神社 東京都足立区西保木間
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