平安期に皇族が当地に移住して遷座、数百年の歴史ある西尾祇園祭
[住所]愛知県西尾市伊文町17
[電話]0563-57-2838
伊文神社(いぶんじんじゃ)は、愛知県西尾市伊文町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代、第55代文徳天皇(在位:850年-858年)の皇子、あるいは弟とされる八條院宮が三河国渥美郡伊川津の地から当地へ移住した。
朝廷の命により、吉良の地を根城にしていた兼光・兼森という兄弟の逆徒討伐のためだったが、その際、天王社と八幡社を当地に随遷したという。
この天王社が当社で、八幡社が当初は現在の山下町にあたる西尾松山に鎮座した社。この八幡社は現在に至るまで当社と不可分の関係にあり、後述する。
当社の御祭神は、素盞鳴尊。『国内神名帳』には正三位内母大明神とある。天王社、天王宮、伊文山牛頭天王、伊文山天王宮などとも称された。
鎌倉時代前期の承久年間(1219年-1222年)、当地の産土神、総鎮守として西尾城主を始め、士民一般の崇敬が篤かった。
特に夏の祭礼は祇園祭と称され、神輿の渡御を中心に、天王町・肴町・本町・中町・幸町・須田町の6ヶ町における神賑行事も盛大に町中総出の賑わいだったという。
足利義氏が承久の乱での功績により三河国守護職に任じられた際に、この地に西尾城を築くにあたり、本丸の東北に松山にあった先の八幡社を奉遷した。
城内守護の神として遷座し、その際、義氏は源家所縁の髭切丸という宝刀と、源義家が用いた白旗を奉納した。以来、この八幡社は御劔八幡宮と呼ばれた。
当社は江戸時代になり、幕府から朱印地18石5斗の寄進を受け、また祭費として、西尾城主より米5俵、銭4貫などを奉納することが通例となった。
なお、現御劔八幡宮も、三河五社八幡の一つに数えられ、徳川幕府より朱印地5石が寄進された。
当社の夏の祭礼においては、祭事を厳格に執行するため、西尾城主より鉄砲・弓・槍などの部隊が遣わされ、神幸行事に随行させたという。
江戸時代の半ば頃から、当社のこの祭礼において、城内に鎮座した御剱八幡宮への神輿の渡御が行われ、この時だけは領民も城内へ入ることが許されたという。
江戸時代後期の文政年間(1818年-1831年)、当社号が伊文山とあると、寺院の山号に誤解されやすいとして、伊文社と呼ばれるようになった。
幕末の安政元年(1855年)、当社は御劔八幡宮とともに正一位の宣下を賜った。明治になり、現社号が定着し、「伊文さん」「祇園さん」と親しまれた。
明治5年(1872年)9月、郷社に列し、明治40年(1907年)10月26日には神饌幣帛供進社に指定された。
現在までに、大己貴命・文徳天皇を併せて祀り、境内末社に、琴平社(大物主神)、多賀社(伊邪那岐命)、稲荷社(倉稲魂命)、秋葉社(迦具土神)、三姫社(多紀里姫命・多紀都姫命・狭依姫命)がある。
昭和54年(1979年)1月1日、不慮の火災により拝殿と琴平社拝殿が炎上したが、翌年にはコンクリート造の社殿が竣工し、復旧した。
当社は素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」に加盟している。
当社の例祭は7月15日で、祇園祭。西尾祇園祭とも呼ばれ、前述の当社祭礼として、少なくとも400年の歴史があるとされ、現在に至っても、市内最大の祭典である。
7月第3土・日曜日が御幸祭で、当社から西尾城址の御剱八幡宮まで神輿の渡御が行われ、厄年の氏子が担ぎ、その下をくぐると病気にかからないとされる。
また、旧城下の町からは肴町の大名行列や中町の大屋形、天王町の神楽獅子、吾妻町の親子獅子などの練り物が出て、夏の宵祭りを彩る。
市街中心地では市民総踊り「踊ろっ茶西尾」などが行われる。
元旦には、婦人会を中心に、甘酒と御神酒の振る舞いが行われる。1月7日には七草粥の振る舞いがある。
6月30日には夏越しの大祓、茅の輪神事があり、境内には直径3メートルの茅の輪が設置される。伊文の夜祭りも行われ、出店やもち投げなどがある。
大晦日には、厄年会による豚汁や甘酒、お菓子やみかんなどの振る舞いがあり、枕の下に敷くと良い初夢が見られるといわれる「宝船」の授与も行われる。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、病気平癒(公式HP)
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伊文神社(いぶんじんじゃ)は、愛知県西尾市伊文町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代、第55代文徳天皇(在位:850年-858年)の皇子、あるいは弟とされる八條院宮が三河国渥美郡伊川津の地から当地へ移住した。
朝廷の命により、吉良の地を根城にしていた兼光・兼森という兄弟の逆徒討伐のためだったが、その際、天王社と八幡社を当地に随遷したという。
この天王社が当社で、八幡社が当初は現在の山下町にあたる西尾松山に鎮座した社。この八幡社は現在に至るまで当社と不可分の関係にあり、後述する。
当社の御祭神は、素盞鳴尊。『国内神名帳』には正三位内母大明神とある。天王社、天王宮、伊文山牛頭天王、伊文山天王宮などとも称された。
鎌倉時代前期の承久年間(1219年-1222年)、当地の産土神、総鎮守として西尾城主を始め、士民一般の崇敬が篤かった。
特に夏の祭礼は祇園祭と称され、神輿の渡御を中心に、天王町・肴町・本町・中町・幸町・須田町の6ヶ町における神賑行事も盛大に町中総出の賑わいだったという。
足利義氏が承久の乱での功績により三河国守護職に任じられた際に、この地に西尾城を築くにあたり、本丸の東北に松山にあった先の八幡社を奉遷した。
城内守護の神として遷座し、その際、義氏は源家所縁の髭切丸という宝刀と、源義家が用いた白旗を奉納した。以来、この八幡社は御劔八幡宮と呼ばれた。
当社は江戸時代になり、幕府から朱印地18石5斗の寄進を受け、また祭費として、西尾城主より米5俵、銭4貫などを奉納することが通例となった。
なお、現御劔八幡宮も、三河五社八幡の一つに数えられ、徳川幕府より朱印地5石が寄進された。
当社の夏の祭礼においては、祭事を厳格に執行するため、西尾城主より鉄砲・弓・槍などの部隊が遣わされ、神幸行事に随行させたという。
江戸時代の半ば頃から、当社のこの祭礼において、城内に鎮座した御剱八幡宮への神輿の渡御が行われ、この時だけは領民も城内へ入ることが許されたという。
江戸時代後期の文政年間(1818年-1831年)、当社号が伊文山とあると、寺院の山号に誤解されやすいとして、伊文社と呼ばれるようになった。
幕末の安政元年(1855年)、当社は御劔八幡宮とともに正一位の宣下を賜った。明治になり、現社号が定着し、「伊文さん」「祇園さん」と親しまれた。
明治5年(1872年)9月、郷社に列し、明治40年(1907年)10月26日には神饌幣帛供進社に指定された。
現在までに、大己貴命・文徳天皇を併せて祀り、境内末社に、琴平社(大物主神)、多賀社(伊邪那岐命)、稲荷社(倉稲魂命)、秋葉社(迦具土神)、三姫社(多紀里姫命・多紀都姫命・狭依姫命)がある。
昭和54年(1979年)1月1日、不慮の火災により拝殿と琴平社拝殿が炎上したが、翌年にはコンクリート造の社殿が竣工し、復旧した。
当社は素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」に加盟している。
当社の例祭は7月15日で、祇園祭。西尾祇園祭とも呼ばれ、前述の当社祭礼として、少なくとも400年の歴史があるとされ、現在に至っても、市内最大の祭典である。
7月第3土・日曜日が御幸祭で、当社から西尾城址の御剱八幡宮まで神輿の渡御が行われ、厄年の氏子が担ぎ、その下をくぐると病気にかからないとされる。
また、旧城下の町からは肴町の大名行列や中町の大屋形、天王町の神楽獅子、吾妻町の親子獅子などの練り物が出て、夏の宵祭りを彩る。
市街中心地では市民総踊り「踊ろっ茶西尾」などが行われる。
元旦には、婦人会を中心に、甘酒と御神酒の振る舞いが行われる。1月7日には七草粥の振る舞いがある。
6月30日には夏越しの大祓、茅の輪神事があり、境内には直径3メートルの茅の輪が設置される。伊文の夜祭りも行われ、出店やもち投げなどがある。
大晦日には、厄年会による豚汁や甘酒、お菓子やみかんなどの振る舞いがあり、枕の下に敷くと良い初夢が見られるといわれる「宝船」の授与も行われる。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、病気平癒(公式HP)
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