崇神朝の創祀、壬申の乱で天下鎮静を祈願、志楽庄一宮
[住所]京都府舞鶴市小倉13
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阿良須神社(あらすじんじゃ)は、京都府舞鶴市小倉13にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「阿良須神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第10代崇神天皇10年、丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠という兇賊を征伐した際、豊受大神を神奈備の浅香の森に奉斎したのが当社の創始だという。
なお、『丹後旧事記』では、大宮売大明神・若宮売大明神としており、両神は丹波道主命が丹波郡周枳の大宮売神を勧請したと伝える。若宮売大明神は豊受大神と同体とされる。
飛鳥時代になり、弘文天皇元年・天武天皇元年(672年)、壬申の乱の際、越前阿須波の里に潜伏した高市皇子が天下鎮静を当社の大神に祈り、御歌を詠じたという。
以来、皇室の崇敬が篤く、平安時代になると、延暦24年(805年)、正一位の神階を下賜された。
貞元年間(976年-978年)、当地が乱れた際、藤原保昌(958年-1036年)が賊徒平定を当社に祈願したと伝わる。
平安時代後期になり、寛治元年(1087年)には正一位一宮大明神の額が奉じられた。以来、一宮・一ノ宮大明神あるいは大森社、志楽庄一宮と称したという。
子に恵まれなかった堀河天皇(在位:1087年-1107年)は当社に祈願、そこで、宗仁親王が誕生したという。後の鳥羽天皇である。
南北朝時代の観応元年(1350年)3月15日、政所尭基が神田5反を、室町時代の寛正3年(1463年)には代官河嶋主計充秀が神田1反をそれぞれ寄進した。
安土桃山時代の慶長5年(1600年)9月7日、兵火にかかり、本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物など、すべて焼失した。
翌慶長6年(1601年)、細川忠興が布留山の地、つまり現在地に遷し、江戸時代になり、明暦4年(1658年)3月24日、文政12年(1829年)6月3日にそれぞれ本殿が改築された。
「志楽庄春日部村正一位一宮大明神」と「豊受皇阿良須神社」などと呼ばれていたが、明治36年(1903年)、現社号に改称、昭和9年(1934年)に郷社になった。
現在までに、主祭神は豊受大神一座であるが、相殿に、多岐都姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の宗像三女神三座を、殿内秘座二宮神として木花咲夜姫命を祀る。
堀川天皇の例もあり、古来、子宝を授け、安産に恵まれるというご利益があるという。
例祭はもともと9月3日だったが、近年は10月末の日曜日に行われる。少女たちによる「天女の舞」「あめつちの舞」などの舞が奉納される。
式年行事として、御屋根洗式十ケ年があったが、近年は行われていない。
南北朝・室町時代文書十三通(一巻)、一宮大明神縁起(一巻)、同造立願文(一巻)、大般若経(一巻)が現存し、大般若経以外は府登録文化財と市指定文化財である。
境内社に、神明神社(天照皇大御神。配神は金刀比羅大神・北野天満大神)・二柱神社(天児屋根命・誉田別尊)・桜王神社(桜大刀自命)がある。桜大刀自命は木花咲夜姫命の別名。
このうち、神明社には、崇神天皇39年3月、天照皇大神が田庭吉佐宮に移った際、この神山に一夜に雪が2丈8尺も積もったという伝承がある。当社の御屋根洗いの際は権殿になった。
なお、式内社「阿良須神社」の論社は他に、福知山市大江町北有路に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
子宝・安産、厄災除け、平穏安寧

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阿良須神社(あらすじんじゃ)は、京都府舞鶴市小倉13にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「阿良須神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第10代崇神天皇10年、丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠という兇賊を征伐した際、豊受大神を神奈備の浅香の森に奉斎したのが当社の創始だという。
なお、『丹後旧事記』では、大宮売大明神・若宮売大明神としており、両神は丹波道主命が丹波郡周枳の大宮売神を勧請したと伝える。若宮売大明神は豊受大神と同体とされる。
飛鳥時代になり、弘文天皇元年・天武天皇元年(672年)、壬申の乱の際、越前阿須波の里に潜伏した高市皇子が天下鎮静を当社の大神に祈り、御歌を詠じたという。
曇る世に 柳ケ原をながむれば 神の恵みや 晴るる朝霧なお、壬申の乱で大活躍した高市皇子が実際に当地を訪れていたのかどうかは不明。また、天武天皇の白鳳10年(681年)9月3日、柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神とした。
風来ぬる 青葉の山の煙りたへ 行先遠き雲の上かな
以来、皇室の崇敬が篤く、平安時代になると、延暦24年(805年)、正一位の神階を下賜された。
貞元年間(976年-978年)、当地が乱れた際、藤原保昌(958年-1036年)が賊徒平定を当社に祈願したと伝わる。
平安時代後期になり、寛治元年(1087年)には正一位一宮大明神の額が奉じられた。以来、一宮・一ノ宮大明神あるいは大森社、志楽庄一宮と称したという。
子に恵まれなかった堀河天皇(在位:1087年-1107年)は当社に祈願、そこで、宗仁親王が誕生したという。後の鳥羽天皇である。
南北朝時代の観応元年(1350年)3月15日、政所尭基が神田5反を、室町時代の寛正3年(1463年)には代官河嶋主計充秀が神田1反をそれぞれ寄進した。
安土桃山時代の慶長5年(1600年)9月7日、兵火にかかり、本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物など、すべて焼失した。
翌慶長6年(1601年)、細川忠興が布留山の地、つまり現在地に遷し、江戸時代になり、明暦4年(1658年)3月24日、文政12年(1829年)6月3日にそれぞれ本殿が改築された。
「志楽庄春日部村正一位一宮大明神」と「豊受皇阿良須神社」などと呼ばれていたが、明治36年(1903年)、現社号に改称、昭和9年(1934年)に郷社になった。
現在までに、主祭神は豊受大神一座であるが、相殿に、多岐都姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の宗像三女神三座を、殿内秘座二宮神として木花咲夜姫命を祀る。
堀川天皇の例もあり、古来、子宝を授け、安産に恵まれるというご利益があるという。
例祭はもともと9月3日だったが、近年は10月末の日曜日に行われる。少女たちによる「天女の舞」「あめつちの舞」などの舞が奉納される。
式年行事として、御屋根洗式十ケ年があったが、近年は行われていない。
南北朝・室町時代文書十三通(一巻)、一宮大明神縁起(一巻)、同造立願文(一巻)、大般若経(一巻)が現存し、大般若経以外は府登録文化財と市指定文化財である。
境内社に、神明神社(天照皇大御神。配神は金刀比羅大神・北野天満大神)・二柱神社(天児屋根命・誉田別尊)・桜王神社(桜大刀自命)がある。桜大刀自命は木花咲夜姫命の別名。
このうち、神明社には、崇神天皇39年3月、天照皇大神が田庭吉佐宮に移った際、この神山に一夜に雪が2丈8尺も積もったという伝承がある。当社の御屋根洗いの際は権殿になった。
なお、式内社「阿良須神社」の論社は他に、福知山市大江町北有路に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
子宝・安産、厄災除け、平穏安寧

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