謀殺された新田義興とその従者を祀る、十騎明神とも呼ばれた社
十寄神社 東京都大田区矢口2-17-28
[住所]東京都大田区矢口2-17-28
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十寄神社(とよせじんじゃ)は、東京都大田区矢口にある神社。近代社格では無格社。現在は徳持神社の兼務社であり、御朱印も徳持神社で頂ける。

南北朝時代の正平7年(1352年)2月15日、足利尊氏追討のため、宗良親王を奉じて、弟の義宗、従兄弟の脇屋義治らと挙兵した南朝方の武将で、新田義貞の次男である新田義興。

人見原・金井原での合戦を経て、鎌倉を一時占拠したこれら新田勢を恐れ、初代鎌倉公方の足利基氏と足利幕府関東執事(関東管領)の畠山国清は義興謀殺を企てた。

正平13年(1358年)、義興は鎌倉に向うため、多摩川・矢口の渡し舟に乗ったが、舟には穴が開けられており、川上で浸水しはじめる中で両岸より矢を射かけられた。

謀略にかかったことを察した義興は自刃、家臣らは互いに刺しちがえたり、対岸の敵陣に切り込み、憤死した。いわゆる矢口渡・津の戦いである。

その後村老らが墳墓を築き、社祠を興して義興の士族および近習の将兵10名が祀られるようになったのが当社の始まり。

御祭神は、新田義興命・世良田右馬助義周命・井伊弾正左衛門直秀命・大嶋周防守義遠命・由良兵庫助命・由良新左衛門命・進藤孫六左衛門命・堺壱岐権守命・土肥三郎左衛門命・南瀬口六郎命・市河五郎命。

御祭神として祀られていないが、自刃・戦死者として、大島兵庫頭義世・松田與市・宍道孫七・堀口義満の名が残されている。

十騎明神(じゅっきみょうじん/じっきみょうじん)・十時明神・十騎社などと称されたが、いつからか現社号に定着、「とよせ」と呼ばれるようになった。

江戸時代には、まず当社へ参拝した後に新田神社で願掛けを行うと願いが叶うとされ、大いに栄えたという。

『新編武蔵風土記稿』にも「十寄明神社」として、「本社の後背に古塚あり。これ十三人の印の墳にて、そのさま新田の社の塚に似たり。是も真福寺の持」とある。

この塚に関しては、『江戸名所図会』にも「十騎塚」とある。「新田の社の塚」とあるように、新田神社には義興の胴塚があり、首塚は埼玉県入間市の愛宕神社にある。

現在は、『新編武蔵風土記稿』にあるような塚を当社本殿裏に確認はできないが、その敷地は囲われており、御神木とみられる大木がそびえている。

昭和20年(1945年)5月の戦災で社殿を焼失、昭和28年(1953年)には瓦葺権現造で木造の旧社殿が再建。昭和55年(1988年)10月には神明造の現社殿へ造替された。

例祭は4月10日・10月10日。参道の狛犬は昭和14年(1939年)奉納、拝殿脇のものは享和3年(1803年)造。境内社に十騎神社がある。

【ご利益】
諸願成就
十寄神社 東京都大田区矢口
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