光秀が秀吉から逃れた勝竜寺城の南に鎮座、江戸期の境内整備
[住所]京都府長岡京市勝竜寺19-25
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春日神社(かすがじんじゃ)は、京都府長岡京市勝竜寺にある神社。近代社格では村社。現在は長岡天満宮の兼務神社であり、御朱印も長岡天満宮で頂ける。

勝竜寺に隣接して鎮座する。当社と勝竜寺の北方には勝竜寺城があり、さらにその北には式内社である神足神社がある。

当社は平安時代末期の承安4年(1174年)、九条兼実によって創建されたと伝わる。御祭神は、天津児屋根尊・姫大神・武甕槌命斎主命の春日四神。

天正10年(1582年)に焼失し、江戸時代初期の慶長9年(1604年)に再建された。江戸時代後期、破損したために、弘化2年(1845年)に造営された。

天正10年の焼失の詳細は不詳だが、近隣の勝竜寺城は、同じ年、本能寺の変を起こした明智光秀が、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、逃げ込んだ城である。

秀吉の追求からさらに逃れるため、当地から坂本城へ逃走するが、その途上、光秀は落命したと伝わる。この混乱や戦乱の影響を当社も受けたのかもしれない。

ちなみに、その少し前、勝竜寺城は、細川藤孝の嫡男である細川忠興と、洗礼を受けてガラシャと改名した光秀の娘であるお玉が新婚生活を過ごした城としても知られる。

江戸時代、当社は久貝を除く勝竜寺村の氏神で、現在は氏子の中から宮総代、副宮総代、・世話方が選ばれて、お千度や5月2日の例祭が行われている。

境内は勝竜寺の境内の東に接して、門、拝殿と覆屋に入った一間社流造の本殿がある。城名の由来となった寺ではあるが、勝竜寺も思いのほか簡素なたたずまい。

寛政元年(1789年)の雨屋新建の棟札、弘化2年・嘉永元年(1848年)の普請入用覚(中山弥太郎家文書)と弘化4年(1847年)の簀覆・拝殿の普請願書が残っている。

また、石鳥居には元禄13年(1700年)、石灯篭には正徳4年(1714年)、狛犬には慶応元年(1865年)の銘があり、 江戸時代における境内整備がうかがえる。

なお、当社は1月に行われる近隣21社からなる乙訓鎮座神社巡りの一社である。

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春日神社 京都府長岡京市勝竜寺
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春日神社 京都府長岡京市勝竜寺の御朱印