桓武帝が霊夢で勅祭、神足の惣産土神、勝龍寺城の土塁と空堀
[住所]京都府長岡京市東神足5
[電話]075-953-1621

神足神社(こうたりじんじゃ/こうたにのじんじゃ)は、京都府長岡京市東神足にある神社。現在は長岡天満宮の兼務神社で、御朱印も長岡天満宮で頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 乙訓郡「神足神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

創祀・創建年代は不詳。この付近は古来より開かれた地域で、縄文時代の遺跡や弥生時代の石剣・管玉なども出土している。

以降も長岡京の地となった。その遷都を進めた桓武天皇は、この田村と呼ばれていた地の池に天から神が降り立ち、宮中から南を襲おうとした悪霊を防いだ夢を見た、と伝わる。

そこで桓武天皇は、当地にこの神を祀る社を建てさせ、太刀と絹を 秘蔵させた。その際、当社名を定め、田村の地名も、神足村に変更されたという。

延暦15年(796年)丙子夏5月5日、桓武天皇が勅祭したとも伝わる。御祭神は、天武天皇の子で、『日本書紀』編纂で名高い舎人親王とされる。

ただ、この由緒はよく分からない。当地に降り立った神がなぜ舎人親王とされたのか、桓武天皇と舎人親王を直接結び付ける要素も見当たらない。

なお、『神足大明神縁起』によれば、当地に降り立った、あるいは光となって東方より飛来した神を神足遊戯神道としている。

一説に、御祭神は天神立命だという。『新撰姓氏録』河内国神別で役直の祖として、「高御魂命孫天神立命之後也」とある。

また、同じく未定雑姓摂津国では、葛城直の祖として、「天神立命之後也」とある。当地の支配氏族に、天神立命の後裔との伝承が残っていた可能性が指摘されている。

また、本居宣長は当社御祭神を遠津山岬多良斯神としたという。この比定の根拠は不明。

ともかく、平安時代前期の斉衡元年(854年)10月17日、官社に列した。鎌倉時代以降、国人である神足氏やその神足村の惣産土神として信仰された。

もとは、小野宮領内荘園「神足園」に鎮座したが、江戸時代前期の元禄年間(1688年-1703年)には「田の南」で「村の巽」に遷座。

さらに村の北東の杜に遷座し、明治5年(1872年)には東海道本線建設のため、そのやや東の現在地に遷座した。明治10年(1877年)、村社に列した。

例祭は6月5日。5月3日には春季大祭があり、氏子祭がある。氏子祭では、御輿をはじめ、鼓笛隊、天狗、稚児などの行列がある。10月第1日曜日が秋祭で、御扉開き。

境内摂社に、埜神社(鹿屋野比売命)がある。

当社東側には、勝竜寺城の土塁と空堀の遺構があり、発掘調査で土塁と空堀の比高が約6メートルあること、土塁下に6世紀後半の方墳である神足古墳が確認された。

この土塁と空堀は、細川藤孝が安土桃山時代の元亀2年(1571年)に城の大改修で造営したもの。その他、土橋と横矢の掛る土塁が残されている。

なお、勝竜寺城の本体は当社の南に位置し、さらにその南には城の名の由来となった勝竜寺があって、勝竜寺に隣接するように、春日神社が鎮座する。

なお、当社は1月に行われる近隣21社からなる乙訓鎮座神社巡りの一社である。

【ご利益】
地域安全、方除け、一族・子孫繁栄
神足神社 京都府長岡京市東神足
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神足神社 京都府長岡京市東神足の御朱印