南北朝期に山城八坂神社を勧請、江戸中期に天神を合祀、だんじり祭り
[住所]大阪府岸和田市別所町1-13-15
[電話]072-436-1188

岸和田天神宮(きしわだてんじんぐう)は、大阪府岸和田市別所町にある神社。通称は沼天神、沼の天神さんと親しまれる。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

南北朝時代、後村上天皇の正平17年(1362年)、現在の沼・筋海・並松にあたる泉州沼村の村長に沼間将監という人がいた。

沼間将監は極めて孝心が厚く、父親が長らく病床に就き、百方手をつくし平癒を願ったがその効験がなかった。

そこで、かねてから信仰していた山城国八坂神社に参り、病父の平癒を祈願すること3日、ついに霊感を得、歓喜して帰郷すると父の病は全快していた。

沼氏は大いに喜び、その御神徳を村の衆に告げ、邸内の清域、つまり現在地に社殿を造営して八坂神社(速須佐之男命)の御分霊を勧請したのが当社の始まり。

後述するように、後に菅原道真公を合祀し、現在に至るまで天満宮の天神と誤認されるが、本来として、当社の天神宮は、牛頭天王の天神の意。

以後、沼氏代々の鎮守として霊験あらたかで、村内に水旱病疫など、ことあるごとに祈願が行われ、その御神徳は遠近に聞え、崇敬する者も多くなったという。

明徳年間(1390年)、山名・大内二氏の争乱などに端を発し、天正年間(1573年-1593年)に至るまで、再三兵火の厄に遭い、社殿・旧記・宝物など一切が焼失した。

村民はその荒廃を嘆き、安土桃山時代の文禄3年(1594年)、社殿の復興を図った。

江戸時代前期の天和3年(1683年)に至って天神宮と称した。表「天神宮」裏面「天和三癸亥年八月祭吉日」と彫られた神号額が現存している。

前述したように、天神宮を名乗って以降のこととして、江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)、村民が私祭していた菅原道真公を合祀した。

明治4年(1871年)、神社調査の際、社名が天神宮であることから、主祭神を菅原道真公と誤認して菅原神社と届出したという。

明治40年から42年(1907年-1909年)にかけて、おそらく春日神社・住吉神社などを含む近隣8社を合祀、氏子町内も拡大した。現在までに下記の神々を相殿に祀る。

熊野櫛御毛奴大神・市杵島姫命品陀別命、勝尾明神、経津主命武甕槌命天児屋根命・比売命(春日神)、底筒男命中筒男命表筒男命住吉三神)・息長足姫命

昭和57年(1982年)、社殿を造営し、名称を旧に復し、現社号に改称した。

例祭は9月15日。敬老の日の前日に行われるだんじり祭りの舞台として有名。岸和田地区では、岸城神社と当社に分かれて宮入が行われる。

当日は、普段静かな当社境内も、沼・筋海・並松・藤井・下野・別所の6台の勇壮なだんじり(地車)を見ようとする大勢の人で大変な賑わいとなる。

2月3日には節分祭があり、15時から豆まきがあって、終日ぜんざいの無料接待が行われる。この日のみ、「厄除けひいらぎ守り」の授与が行われる。

境内社に、岸和田天神戎神社がある。御祭神は事代主命(戎さん)、大国主命(大黒さん)。昭和28年(1953年)12月26日に今宮戎神社を勧請した。

商売繁盛・産業繁栄のご利益があり、1月9日から11日までいわゆる十日戎の天神戎祭が行われる。吉兆や福笹が授与され、福男による餅まきがある。

他の境内社に為岩大神や、多くの小祠がある他、不動堂には赤不動が祀られている。また、天保2年(1831年)、弘化4年(1847年)の建立の狛犬がある。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、学業・受験合格、商売繁盛(公式HP
岸和田天神宮 大阪府岸和田市別所町
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