安土桃山時代に神像が漂着した地に奉斎された「寄来さま」
[住所]東京都大田区大森北6-32-12
[電話]03-3761-3909
大森神社(おおもりじんじゃ)は、東京都大田区大森北にある神社。寄来さま、寄來さま。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、金色に輝く神像、あるいは阿弥陀像が海岸に漂着した。
里人らは畏れて像を沖へ戻したものの、再びもとの場所に流れ着き、押し流すこと三度に及んだが、なお同じ場所に寄り来た。
そこで、祠を建て、この像を祀ったのが当社の起源とされる。このことから当社は寄来明神、寄来神社とも称された。
「寄来」は福が寄り来たるとも解釈され、旧大森村の小字、北原・中原・南原の三原地域の鎮守として崇敬された。
この三原が美原に転化し、現在も、区内大森本町から大森東にかけて、旧東海道がほぼ当時の道幅のままで残り、「美原通り」と呼ばれている。
往時は、この美原通りまで達する社地が広がり、相当な大社だったとされる。
御祭神は久久能智命で、樹木の神。海辺だった当地に、なぜ木の神が祀られたのかは不詳。家屋の守護神、あるいはかつては広大な森があったことなどが指摘されている。
現在の品川区東品川には寄木神社がある。当社の寄来神社とも音が通じ、この「木/来」が木の神につながった可能性もある。
明治元年(1868年)、神祇伯の白川資訓王より現社号と額面を賜り、昭和7年(1932年)10月、東京市編入の際に現社号に改称した。
昭和20年(1945年)4月の空襲により、社殿など諸施設を焼失し、仮宮にて奉斎していた。
本格的な社殿復興は第一京浜の拡張計画の影響で遅れたものの、昭和38年(1963年)に鉄筋コンクリート造により再建された。
昭和50年(1975年)、現在の区立大森スポーツセンターの地にあった大森魚市場から青銅燈籠が奉納された。
現在は第一京浜と京浜急行にはさまれる形になり、境内はこじんまりしている。境内社に、稲荷神社(宇迦之御魂命・伊弉柵命)、椿神社(猿田彦命)がある。
例祭は9月14日。
【ご利益】
住宅守護、木の神、リフレッシュ、地域安全

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
[電話]03-3761-3909
大森神社(おおもりじんじゃ)は、東京都大田区大森北にある神社。寄来さま、寄來さま。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、金色に輝く神像、あるいは阿弥陀像が海岸に漂着した。
里人らは畏れて像を沖へ戻したものの、再びもとの場所に流れ着き、押し流すこと三度に及んだが、なお同じ場所に寄り来た。
そこで、祠を建て、この像を祀ったのが当社の起源とされる。このことから当社は寄来明神、寄来神社とも称された。
「寄来」は福が寄り来たるとも解釈され、旧大森村の小字、北原・中原・南原の三原地域の鎮守として崇敬された。
この三原が美原に転化し、現在も、区内大森本町から大森東にかけて、旧東海道がほぼ当時の道幅のままで残り、「美原通り」と呼ばれている。
往時は、この美原通りまで達する社地が広がり、相当な大社だったとされる。
御祭神は久久能智命で、樹木の神。海辺だった当地に、なぜ木の神が祀られたのかは不詳。家屋の守護神、あるいはかつては広大な森があったことなどが指摘されている。
現在の品川区東品川には寄木神社がある。当社の寄来神社とも音が通じ、この「木/来」が木の神につながった可能性もある。
明治元年(1868年)、神祇伯の白川資訓王より現社号と額面を賜り、昭和7年(1932年)10月、東京市編入の際に現社号に改称した。
昭和20年(1945年)4月の空襲により、社殿など諸施設を焼失し、仮宮にて奉斎していた。
本格的な社殿復興は第一京浜の拡張計画の影響で遅れたものの、昭和38年(1963年)に鉄筋コンクリート造により再建された。
昭和50年(1975年)、現在の区立大森スポーツセンターの地にあった大森魚市場から青銅燈籠が奉納された。
現在は第一京浜と京浜急行にはさまれる形になり、境内はこじんまりしている。境内社に、稲荷神社(宇迦之御魂命・伊弉柵命)、椿神社(猿田彦命)がある。
例祭は9月14日。
【ご利益】
住宅守護、木の神、リフレッシュ、地域安全

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