道灌が創祀、徳川綱吉が愛妾ゆかりの「くろ鍬谷」に遷座
[住所]東京都港区赤坂4-13-17
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末廣稲荷神社(すえひろいなりじんじゃ、末広稲荷神社)は、東京都港区赤坂にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

戦国時代の長禄元年(1457年)、太田道灌は千代田城を築き、その城中に後年江戸城の吹上御苑に当たる地に、倉稲魂命を奉斎したのが始まりだという。

俗称、火伏の稲荷で、江戸城鎮護の祠とした。道灌没後、後年まで祭祀され、安土桃山時代の天正18年(1590年)、徳川氏入府後も崇敬されていた。

現在の平川天神様山王様などと同様、道灌によって城内に祀られ、徳川時代に至って移祀された神社の一つだという。

家康入府の後、三河から随身してきた、くろ鍬同心に今の赤坂丹後町一帯の土地を与え、1人当たり84坪ずつ割いて住宅地に充てさせた。

「クロ鍬」は、戦において、道を造ったり、橋を架けたり、平時の土工に類する仕事に従事する、現在の工兵のような職種。

9寸に6寸の鍬を揮って仕事をしたので、九六鍬と呼んだものが転訛した。その子孫が幕府の仕事を世襲してこの地に住んだので、当地をくろ鍬谷と称した。

5代将軍徳川綱吉の晩年、江戸時代前期の元禄14年(1701年)4月、幕府は吹上御苑に祀ってあった火伏せ稲荷をくろ鍬同心の鎮守として賜った。

これが当社が当地に遷座した由来である。幕府がくろ鍬同心の部落に神を授けるなど、前代未聞のことではあったが、それには理由があった。

綱吉が将軍になる前、上州館林の城主だった時、小屋権兵衛というくろ鍬の、お傳(お伝)という娘を見初め、側に侍らせた。いわゆる瑞春院である。

天性の利発で綱吉の側にあって、学問から能楽に至るまで綱吉の相手をするようになり、特に小鼓は名人だったという。

綱吉は将軍になってからも一層お傳を寵愛し、お傳はその才覚を生かして、大奥を切り回し、権勢をふるったという。

出自が卑しかったこともあり、相当な迫害を受けたともされるが、お傳は逆襲に転じるなど強気の姿勢を見せたとも伝わる。

お傳を通じた、将軍家のくろ鍬同心に対する贔屓が、火伏せ稲荷の当地への遷座という異例の措置につながったとされる。

遷座後、累代くろ鍬同心によって崇信されてきたが、明治維新により、同心らが四散すると、当社も急速に衰微した。

大正12年(1923年)9月、関東大震災により、社殿が著しく損壊。町内崇敬者の浄財で改築した。氏子を持たない神社だったが、町内崇敬者により、盛り立てられたという。

【ご利益】
火防、地域安全、出世開運
末廣稲荷神社 東京都港区赤坂
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