本芝両社の御穂神社と鹿嶋神社が、平成の世に合併して社殿造営
[住所]東京都港区芝4-15-1
[電話]03-3452-2664
御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)は、東京都港区芝にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
もとは御穂神社と鹿嶋神社という別の二つの神社だったが、社殿の老朽化や付近の再開発事業などにより合併、平成16年(2004年)8月、現社号に改称した。
旧鹿嶋神社の社地に新社殿を造営、平成18年(2006年)11月に遷座した。
御穂神社は、室町時代の文明11年(1479年)の創建と伝わる。御祭神は南北朝時代初期の政治家である藤原藤房(万里小路藤房)卿。
南北朝時代、後村上天皇の御代(1339年-1368年)、当地芝浦に一人の気高き老翁がおり、ささやかな庵を結び、村人を教え導いたという。
その没後、その高徳を慕う村人たちが庵の跡に宮所を設け、尉殿の宮と崇めたことが創祀とされる。この老翁が藤原藤房であるという。
ただし、藤房は建武の新政に失望して出家、その後行方をくらました人物であり、各地にさまざまな伝承が存在する。
また、駿河国三保からの移住者が、故郷の氏神である御穂神社を勧請したとする説がある。『江戸名所図会』には、当社の御祭神は、御穂津彦と御穂津姫としている。
鹿嶋神社は、江戸時代初期の寛永年間(1624年-1644年)の創建と伝えられている。御祭神は武甕槌命。
その昔、沖の方より神殿が当地に漂着した。中には幣帛があったが、打ち寄せる波に少しも濡れておらず、どこの社のものか不明なまま海岸に安置された。
後日、常陸国の人が探しに来て、鹿島神宮に鎮座していた一社であると判明し、持ち帰った。しかし、再び同じように流されてしまい、同じ場所に流れ着いた。
さらに「この浦に祀り坐すべし」と御神託があり、当地の人々はこの奇瑞に驚き、宮所を定め、祀ったのが始まり。
当地近辺は、江戸時代までは柴村という村であったが、徳川家康が入府し江戸幕府ができてからは急速に発展。
柴町・芝町と呼ばれ、寛文2年(1662年)に町奉行支配となってからは本芝と呼ばれるようになった。
この地に古くから祀られていた美穂神社と、新しく鎮座した鹿嶋神社の2社が存在することになったが、どちらも本芝の鎮守とされ、「本芝両社」と呼ばれた。
別当寺はいずれも正福寺で、正福寺がこの2社を管理、宮司も2社を兼任した。祭礼も2社同日の3月15日に行われ、古くから二社一体だった。
明治になり神仏分離。明治5年(1872年)には御穂神社が、明治7年(1874年)には鹿嶋神社が、それぞれ村社に列した。
2社とも、明治45年(1912年)5月2日、神饌幣帛料供進神社に指定された。
戦後の昭和39年(1964年)、住居表示の実施に伴い、本芝も大部分が芝4丁目となり、現在は地名として本芝は消滅している。
当社の社殿は平成の合併後に新築されたものだが、境内には、天水桶や力石など、もとのものが保存され、安置されている。
境内社に、稲荷社・天満宮・住吉社の三社が合わせて祀られている。
江戸末期、嘉永年間(1848年-1855年)に奉納されたと見られる、江戸流れ形式で見事に造形された狛犬がある。
また、台座には明治9年(1876年)から開始された標高調査の「几号水準点」が刻まれている。
例祭は6月第2土・日曜日。山車の巡行がある他、2年に一度、宮神輿が出る。本芝、芝浦1丁目、芝浦2丁目、海岸2・3丁目の氏子4町会が担いで各町会を渡御する。
【ご利益】
地域安全、家内安全、武運長久・勝運

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)は、東京都港区芝にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
もとは御穂神社と鹿嶋神社という別の二つの神社だったが、社殿の老朽化や付近の再開発事業などにより合併、平成16年(2004年)8月、現社号に改称した。
旧鹿嶋神社の社地に新社殿を造営、平成18年(2006年)11月に遷座した。
御穂神社は、室町時代の文明11年(1479年)の創建と伝わる。御祭神は南北朝時代初期の政治家である藤原藤房(万里小路藤房)卿。
南北朝時代、後村上天皇の御代(1339年-1368年)、当地芝浦に一人の気高き老翁がおり、ささやかな庵を結び、村人を教え導いたという。
その没後、その高徳を慕う村人たちが庵の跡に宮所を設け、尉殿の宮と崇めたことが創祀とされる。この老翁が藤原藤房であるという。
ただし、藤房は建武の新政に失望して出家、その後行方をくらました人物であり、各地にさまざまな伝承が存在する。
また、駿河国三保からの移住者が、故郷の氏神である御穂神社を勧請したとする説がある。『江戸名所図会』には、当社の御祭神は、御穂津彦と御穂津姫としている。
鹿嶋神社は、江戸時代初期の寛永年間(1624年-1644年)の創建と伝えられている。御祭神は武甕槌命。
その昔、沖の方より神殿が当地に漂着した。中には幣帛があったが、打ち寄せる波に少しも濡れておらず、どこの社のものか不明なまま海岸に安置された。
後日、常陸国の人が探しに来て、鹿島神宮に鎮座していた一社であると判明し、持ち帰った。しかし、再び同じように流されてしまい、同じ場所に流れ着いた。
さらに「この浦に祀り坐すべし」と御神託があり、当地の人々はこの奇瑞に驚き、宮所を定め、祀ったのが始まり。
当地近辺は、江戸時代までは柴村という村であったが、徳川家康が入府し江戸幕府ができてからは急速に発展。
柴町・芝町と呼ばれ、寛文2年(1662年)に町奉行支配となってからは本芝と呼ばれるようになった。
この地に古くから祀られていた美穂神社と、新しく鎮座した鹿嶋神社の2社が存在することになったが、どちらも本芝の鎮守とされ、「本芝両社」と呼ばれた。
別当寺はいずれも正福寺で、正福寺がこの2社を管理、宮司も2社を兼任した。祭礼も2社同日の3月15日に行われ、古くから二社一体だった。
明治になり神仏分離。明治5年(1872年)には御穂神社が、明治7年(1874年)には鹿嶋神社が、それぞれ村社に列した。
2社とも、明治45年(1912年)5月2日、神饌幣帛料供進神社に指定された。
戦後の昭和39年(1964年)、住居表示の実施に伴い、本芝も大部分が芝4丁目となり、現在は地名として本芝は消滅している。
当社の社殿は平成の合併後に新築されたものだが、境内には、天水桶や力石など、もとのものが保存され、安置されている。
境内社に、稲荷社・天満宮・住吉社の三社が合わせて祀られている。
江戸末期、嘉永年間(1848年-1855年)に奉納されたと見られる、江戸流れ形式で見事に造形された狛犬がある。
また、台座には明治9年(1876年)から開始された標高調査の「几号水準点」が刻まれている。
例祭は6月第2土・日曜日。山車の巡行がある他、2年に一度、宮神輿が出る。本芝、芝浦1丁目、芝浦2丁目、海岸2・3丁目の氏子4町会が担いで各町会を渡御する。
【ご利益】
地域安全、家内安全、武運長久・勝運

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