天神社と八幡宮が合祀、甘南備山頂の月読神の影向石、能楽発祥の地
[住所]京都府京田辺市薪里ノ内1
[電話]-
薪神社(たきぎじんじゃ)は、京都府京田辺市薪里ノ内にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
酬恩庵一休寺の奥、集落の奥の小さな丘の麓に鎮座する。創祀・創建年代は不詳。御祭神は天津彦根命。例祭は10月15日。
明治41年(1908年)、当地にあった天神社と、現在地の南東150メートルの地にあった八幡神社とを合祀して創立された。
天神社の境内には光通寺釈迦堂、経蔵、観音堂があったというが、明治初年の神仏分離令で光通寺は廃された。
本殿北側は元観音山と呼ばれ、観音堂があったが、これも明治初年に廃され、山は削平され、現在は児童公園になっている。
境内に甘南備山頂にあった、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。なぜ当社へ運ばれたのか不明。
甘南備山には式内社である神奈備神社があり、この影向石に関しては、やはり式内社の月読神社があり、月読神社でも当社に影向石が祀られている、と伝える。
能楽発祥の地とされ、石碑が建つ。この付近で金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じたと伝えられている。
境内社に、八幡宮・住吉社・武内神社・金刀比羅宮があるとされ、猿田彦社も確認できる。この八幡宮は先述した、合祀したものか。
当社本殿に残された棟札によると、星野天神・住吉・武氏の三社は、天正年間(1573年-1592年)に再興されたとある。
星野天神がもとの天神社、武氏は武内神社のことと思われるが、現在、社殿や祠が確認できない。
他に、近世の伝えとして、寛永6年(1629年)には、薪村と大住村の山論を板文にして奉納したという。
また、明暦元年(1655年)、薪村八幡宮・天満宮の縁起と宮座の定めを改め、寛政6年(1794年)に造営とある。
薪村八幡宮は合祀した、あるいは現在境内にある八幡だと思われるが、天満宮は今までの由緒に出てこない。天神社が天満天神と誤認されたものか。
なお、『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「内神社二座」に当社を比定する説があるようだが、有力ではなく、式内社「内神社二座」は八幡市の内神社に比定されるのが普通。
【ご利益】
地域安全、家内安全、一族・子孫繁栄、五穀豊穣
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薪神社(たきぎじんじゃ)は、京都府京田辺市薪里ノ内にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
酬恩庵一休寺の奥、集落の奥の小さな丘の麓に鎮座する。創祀・創建年代は不詳。御祭神は天津彦根命。例祭は10月15日。
明治41年(1908年)、当地にあった天神社と、現在地の南東150メートルの地にあった八幡神社とを合祀して創立された。
天神社の境内には光通寺釈迦堂、経蔵、観音堂があったというが、明治初年の神仏分離令で光通寺は廃された。
本殿北側は元観音山と呼ばれ、観音堂があったが、これも明治初年に廃され、山は削平され、現在は児童公園になっている。
境内に甘南備山頂にあった、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。なぜ当社へ運ばれたのか不明。
甘南備山には式内社である神奈備神社があり、この影向石に関しては、やはり式内社の月読神社があり、月読神社でも当社に影向石が祀られている、と伝える。
能楽発祥の地とされ、石碑が建つ。この付近で金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じたと伝えられている。
境内社に、八幡宮・住吉社・武内神社・金刀比羅宮があるとされ、猿田彦社も確認できる。この八幡宮は先述した、合祀したものか。
当社本殿に残された棟札によると、星野天神・住吉・武氏の三社は、天正年間(1573年-1592年)に再興されたとある。
星野天神がもとの天神社、武氏は武内神社のことと思われるが、現在、社殿や祠が確認できない。
他に、近世の伝えとして、寛永6年(1629年)には、薪村と大住村の山論を板文にして奉納したという。
また、明暦元年(1655年)、薪村八幡宮・天満宮の縁起と宮座の定めを改め、寛政6年(1794年)に造営とある。
薪村八幡宮は合祀した、あるいは現在境内にある八幡だと思われるが、天満宮は今までの由緒に出てこない。天神社が天満天神と誤認されたものか。
なお、『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「内神社二座」に当社を比定する説があるようだが、有力ではなく、式内社「内神社二座」は八幡市の内神社に比定されるのが普通。
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