平安初期の創祀、勧修寺の鎮守、元禄期の本殿、拝殿前に巨大破魔矢
[住所]京都府京都市山科区勧修寺御所内町94
[電話]075-312-1123

吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)は、京都府京都市山科区勧修寺御所内町にある神社。単に八幡宮とも。御朱印の有無は不明。

平安時代初期、第55代文徳天皇の仁寿3年(853年)9月21日、この地を鎮護国家の霊場とすべく、社殿を創建し、八幡を勧請したと伝えられる。

御祭神は、応神天皇仲哀天皇神功皇后。現在は小野の産土神。

第60代醍醐天皇(在位:897年-930年)が勧修寺を建立した際、身を清めたとされる井戸が伝えられている。当社は勧修寺の鎮守でもあった。

勧修寺にゆかりのある神々を奉斎している神社に、宮道神社がある。

「吉利倶」という名称は、かつて境内の老杉が倒れたため伐採したが、その切断面に梵字で「吉利倶」の3文字があったことに由来しているという。

その庭園の借景である当宮の御山が亀の甲羅のように見えることから、亀甲山と名付けられた。

古くは皇族や武将の崇敬が篤く、社祭には勅使の差遣があり、参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事を祈願したという。

室町時代の長禄2年(1458年)3月、8代将軍足利義政から修復造営料の寄進があった。しかし、応仁の乱(1467年-1477年)の兵火により焼失。この際、神宝や旧記なども失った。

やがて豊臣秀吉により崇敬され、その遺志を継いだ前田玄以から神田12石などの寄進があった。常陸松岡藩主の戸沢政盛が造営したとも伝わる。

現在の本殿は江戸時代前期の元禄8年(1695年)の再建で、市の文化財に指定されている。その後、享保19年(1734年)・安永8年(1779年)に修理された記録が残る。

本殿は桁行3間・梁行2間の切妻造桧皮葺で、向拝部分は享保の修理で改変されたものと推定されている。

内部は内外陣の間仕切りが棟通りと一致せず、内陣には祭壇が設けられている。

この時の大工は勧修寺の宸殿なども造営していることから、勧修寺が元禄年間(1688年-1704年)に復興された際に合わせて再建されたと考えられている。

拝殿は山階宮家の寄進、拝殿前の大きな御神矢は総代会が奉納したもの。この巨大破魔矢とも呼ばれるものが当社の代名詞。常時安置されているのは珍しいかもしれない。

境内社に、武内社、若宮八幡宮社、天満宮がある。天満宮の近くには安産の神が祀られている。灯篭が覆屋に納められている。

加茂神、吉野神、貴船神、日吉神、稲荷神を配祀する。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、安産
吉利倶八幡宮 京都府京都市山科区勧修寺御所内町
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