もとの両羽大明神、琵琶法師の祖神ゆかり、伊勢・平家両物語にも記載
[住所]京都府京都市山科区四ノ宮中在寺町17
[電話]075-581-0269
諸羽神社(もろはじんじゃ)は、京都府京都市山科区四ノ宮中在寺町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、平安時代前期の貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営され、両羽大明神と称せられた。
御祭神は天児屋根命、天太玉命。二神は、禁裏御料地の山階(山科)郷柳山に降臨し、揚柳大明神とも称した。
社殿は応仁の乱(1467年-1477年)の兵火で焼失、その後再建された社殿も、江戸時代中期の明和年間(1764年-1772年)、大火で焦土と化した。
その後、三度目の造営がなされ今日に至る。
永正年間(1504年-1520年)、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡を合祀、社名の「兩羽」も「諸羽」に改められた。
現在までに主神の2柱の他、計6柱を併せて祀る。
当社は、山科18郷の中で4番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神として崇敬された。
ただし、「四ノ宮」については後述の異説もある。
当社背後の山は諸羽山と呼ばれ、『平家物語』の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で……」と記されているのは、当社周辺のことだという。
本殿の西北に「琵琶石」といわれる石があるが、仁明天皇(在位:833年-850年)の第4皇子である人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられている。
人康親王は、上総・常陸国の太守、弾正台の長官を歴任。天安3年・貞観元年(859年)、高熱により両目を失明し、宮中より追われた。
以後、山科御所を営み隠棲し、出家して法性と号した。現在にも続く地名の四ノ宮は、この第4皇子である人康親王にちなむとされる。
人康親王は、『伊勢物語』78段に、「山科の禅師親王」としても登場する。琵琶の名手としてしられ、鎌倉・室町時代の琵琶法師には始祖「雨夜尊」「天夜尊」と崇敬された。
例祭は10月第3日曜日。神幸祭がある。神輿2基が自動車編成により氏子中を巡幸する。当社近くの区間は往復とも神輿を人が担ぐ。
【ご利益】
学業・受験合格、スポーツ・技芸上達、厄災除け
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諸羽神社(もろはじんじゃ)は、京都府京都市山科区四ノ宮中在寺町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、平安時代前期の貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営され、両羽大明神と称せられた。
御祭神は天児屋根命、天太玉命。二神は、禁裏御料地の山階(山科)郷柳山に降臨し、揚柳大明神とも称した。
社殿は応仁の乱(1467年-1477年)の兵火で焼失、その後再建された社殿も、江戸時代中期の明和年間(1764年-1772年)、大火で焦土と化した。
その後、三度目の造営がなされ今日に至る。
永正年間(1504年-1520年)、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡を合祀、社名の「兩羽」も「諸羽」に改められた。
現在までに主神の2柱の他、計6柱を併せて祀る。
当社は、山科18郷の中で4番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神として崇敬された。
ただし、「四ノ宮」については後述の異説もある。
当社背後の山は諸羽山と呼ばれ、『平家物語』の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で……」と記されているのは、当社周辺のことだという。
本殿の西北に「琵琶石」といわれる石があるが、仁明天皇(在位:833年-850年)の第4皇子である人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられている。
人康親王は、上総・常陸国の太守、弾正台の長官を歴任。天安3年・貞観元年(859年)、高熱により両目を失明し、宮中より追われた。
以後、山科御所を営み隠棲し、出家して法性と号した。現在にも続く地名の四ノ宮は、この第4皇子である人康親王にちなむとされる。
人康親王は、『伊勢物語』78段に、「山科の禅師親王」としても登場する。琵琶の名手としてしられ、鎌倉・室町時代の琵琶法師には始祖「雨夜尊」「天夜尊」と崇敬された。
例祭は10月第3日曜日。神幸祭がある。神輿2基が自動車編成により氏子中を巡幸する。当社近くの区間は往復とも神輿を人が担ぐ。
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学業・受験合格、スポーツ・技芸上達、厄災除け
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