龍神山南峰の山腹、国史「村上神」、屏風岩と染谷十二座神楽
[住所]茨城県石岡市染谷1856
[電話]-
佐志能神社(さしのじんじゃ)は、茨城県石岡市染谷にある神社。染谷佐志能神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 新治郡「佐志能神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀・創建年代は不詳。幕末の文久2年(1862年)9月に社殿を焼失し、記録等は残っていないという。
東国の鎮定に大功をたてた第10代崇神天皇の皇子である豊城入彦命。その玄孫である荒田別命の子孫、佐白公が新治国造に任ぜられた。
その際、祖神を祀るために、佐白の山に社を建てたのが当社だと伝わる。佐志能は佐白の転訛だという。
もとは龍神山(竜神山)上に祀られていたというが、現在は麓に鎮座している。南峰の山腹、標高約85メートルの地。
鎮座地は昔、村上村と称しており、『日本三代実録』の「村上神」を当社に比定する説がある。いわゆる国史見在社。
近世に入って村の分合が行われ、地名が染谷と変わったため、村上に別に同名の一社を創立したともいわれる。
この同名の神社は、いわゆる村上社などとも呼ばれ、龍神山の北峰の山麓、標高約70メートルの地に鎮座する。
ただし、村上社は当社からの分祀ではなく、村上社の創祀年代も不詳であり、当社と村上社は一対の神社とする見方が有力。
当社の別称は、女龍(めたつ)。村上社を男龍と称したともいう。当社の御祭神は、豊城入彦命と高龗神。一説に日本武尊とも。
龍神山の信仰であり、本来は龍神(高靇神)だったとされる。当社が高靇神を祀り、村上社では闇靇神を祀っているともいう。
村上社も当然、式内論社であり、『日本三代実録』の「村上神」とする説がある。
当社の本殿左手の屏風岩には、「風神の穴」と呼ばれる穴がある。
この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ、雨を降らせるという。
幕末の火災の後、再建され、明治29年(1896年)4月1日、郷社に列した。
明治43年(1910年)、町内の無格社御嶽神社とその境内の八海山神社、三笠山神社、道祖神社、金刀比羅神社を合祀した。
大正元年(1912年)12月、町内の無格社鷲宮神社を、大正3年(1914年)12月、志筑村村社鹿島神社を合祀した。
例祭は4月19日。奉納される染谷十二座神楽は400年の歴史を持つと伝えられ、現在まで残っている数少ない里神楽の一つとされ、市指定有形民俗文化財。
境内社に、神武天皇社(神倭磐余毘古命)と大杉神社(大物主命)がある。
なお、式内社「佐志能神社」の論社は先の村上社の他に、笠間市笠間と市内柿岡に当社および式内同名神社がある。
また、当社は、式内社「羽梨山神社」の候補になる場合がある。式内社「羽梨山神社」は一般的に笠間市上郷の式内同名神社に比定されているが、異説がある。
『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており、村上と当社が一対で式内社「羽梨山神社」に相当する、という。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、一族・子孫繁栄
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佐志能神社(さしのじんじゃ)は、茨城県石岡市染谷にある神社。染谷佐志能神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 新治郡「佐志能神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀・創建年代は不詳。幕末の文久2年(1862年)9月に社殿を焼失し、記録等は残っていないという。
東国の鎮定に大功をたてた第10代崇神天皇の皇子である豊城入彦命。その玄孫である荒田別命の子孫、佐白公が新治国造に任ぜられた。
その際、祖神を祀るために、佐白の山に社を建てたのが当社だと伝わる。佐志能は佐白の転訛だという。
もとは龍神山(竜神山)上に祀られていたというが、現在は麓に鎮座している。南峰の山腹、標高約85メートルの地。
鎮座地は昔、村上村と称しており、『日本三代実録』の「村上神」を当社に比定する説がある。いわゆる国史見在社。
近世に入って村の分合が行われ、地名が染谷と変わったため、村上に別に同名の一社を創立したともいわれる。
この同名の神社は、いわゆる村上社などとも呼ばれ、龍神山の北峰の山麓、標高約70メートルの地に鎮座する。
ただし、村上社は当社からの分祀ではなく、村上社の創祀年代も不詳であり、当社と村上社は一対の神社とする見方が有力。
当社の別称は、女龍(めたつ)。村上社を男龍と称したともいう。当社の御祭神は、豊城入彦命と高龗神。一説に日本武尊とも。
龍神山の信仰であり、本来は龍神(高靇神)だったとされる。当社が高靇神を祀り、村上社では闇靇神を祀っているともいう。
村上社も当然、式内論社であり、『日本三代実録』の「村上神」とする説がある。
当社の本殿左手の屏風岩には、「風神の穴」と呼ばれる穴がある。
この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ、雨を降らせるという。
幕末の火災の後、再建され、明治29年(1896年)4月1日、郷社に列した。
明治43年(1910年)、町内の無格社御嶽神社とその境内の八海山神社、三笠山神社、道祖神社、金刀比羅神社を合祀した。
大正元年(1912年)12月、町内の無格社鷲宮神社を、大正3年(1914年)12月、志筑村村社鹿島神社を合祀した。
例祭は4月19日。奉納される染谷十二座神楽は400年の歴史を持つと伝えられ、現在まで残っている数少ない里神楽の一つとされ、市指定有形民俗文化財。
境内社に、神武天皇社(神倭磐余毘古命)と大杉神社(大物主命)がある。
なお、式内社「佐志能神社」の論社は先の村上社の他に、笠間市笠間と市内柿岡に当社および式内同名神社がある。
また、当社は、式内社「羽梨山神社」の候補になる場合がある。式内社「羽梨山神社」は一般的に笠間市上郷の式内同名神社に比定されているが、異説がある。
『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており、村上と当社が一対で式内社「羽梨山神社」に相当する、という。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、一族・子孫繁栄
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