頼朝が勧請、御神木「争いの杉」、別当は大龍寺、8月に神幸祭行列
[住所]東京都北区田端4-18-1
[電話]03-3828-2798
上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、東京都北区田端にある神社。近代社格では無格社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を討伐、その帰路に当地の豪族豊島氏らとともに当地に立ち寄った。
その際、駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請、旧田端村の鎮守とした。これが当社の創始である。
創建の由緒は田端八幡神社と同じ。旧田端村が台地上の上田端と崖下の下田端という、ふたつの地域に分かれていたため、後に分祀されたとも。
御祭神は品陀和気命。旧別当寺は俳人・正岡子規の墓などがある和光山大龍寺で、当社に隣接して現存する。
昭和20年(1945年)4月19日の空襲により、拝殿や社務所・神楽殿などが焼失した。戦後になり再建され、被害を免れた本殿も後に造替された。
しかし、樹齢900年の大銀杏(イチョウ)をはじめ、榎(エノキ)、欅(ケヤキ)の大樹はこの戦災で失ったという。
例祭は8月中旬。神幸祭で、宮神輿とともに神幸祭行列が行われる。2月3日には節分祭があり、豆まき、子供に福袋が振る舞われる。
境内社に、大山祇神社・白鬚神社・稲荷神社がある。白鬚神社はもとは田端中学校あたり、三角屋敷と呼ばれていた地にあったが、大正2年(1913年)、遷座した。
白髭社の御神木は2本の杉の巨木だったといい、高さは約8.3メートル、幹の太さは約3メートル、遠くから見ると松にも見えたという。
源義経の討伐に向かった畠山重忠と家臣が、この御神木について、杉か松かで言い争ったという伝承から、「争いの杉」と称された。
畠山重忠ではなく、太田道灌とも伝わるが、この御神木は現存していない。
境内には3月下旬から4月中旬に見頃を迎える桜や、イチョウの大木10本、ケヤキの大木5本があり、11月下旬には紅葉が見事。
【ご利益】
地域安全、厄災除け、武運長久・勝運

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、東京都北区田端にある神社。近代社格では無格社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を討伐、その帰路に当地の豪族豊島氏らとともに当地に立ち寄った。
その際、駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請、旧田端村の鎮守とした。これが当社の創始である。
創建の由緒は田端八幡神社と同じ。旧田端村が台地上の上田端と崖下の下田端という、ふたつの地域に分かれていたため、後に分祀されたとも。
御祭神は品陀和気命。旧別当寺は俳人・正岡子規の墓などがある和光山大龍寺で、当社に隣接して現存する。
昭和20年(1945年)4月19日の空襲により、拝殿や社務所・神楽殿などが焼失した。戦後になり再建され、被害を免れた本殿も後に造替された。
しかし、樹齢900年の大銀杏(イチョウ)をはじめ、榎(エノキ)、欅(ケヤキ)の大樹はこの戦災で失ったという。
例祭は8月中旬。神幸祭で、宮神輿とともに神幸祭行列が行われる。2月3日には節分祭があり、豆まき、子供に福袋が振る舞われる。
境内社に、大山祇神社・白鬚神社・稲荷神社がある。白鬚神社はもとは田端中学校あたり、三角屋敷と呼ばれていた地にあったが、大正2年(1913年)、遷座した。
白髭社の御神木は2本の杉の巨木だったといい、高さは約8.3メートル、幹の太さは約3メートル、遠くから見ると松にも見えたという。
源義経の討伐に向かった畠山重忠と家臣が、この御神木について、杉か松かで言い争ったという伝承から、「争いの杉」と称された。
畠山重忠ではなく、太田道灌とも伝わるが、この御神木は現存していない。
境内には3月下旬から4月中旬に見頃を迎える桜や、イチョウの大木10本、ケヤキの大木5本があり、11月下旬には紅葉が見事。
【ご利益】
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