頼朝が奥州からの帰路に勧請、城山八幡とも、東覚寺の赤紙仁王尊
[住所]東京都北区田端2-7-2
[電話]03-3828-6867
田端八幡神社(たばたはちまんじんじゃ)は、東京都北区田端にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を討伐、その帰路に当地の豪族豊島氏らとともに当地に立ち寄った。
その際、駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請、旧田端村の鎮守とした。これが当社の創始である。
創建の由緒は上田端八幡神社と同じ。御祭神は品陀和気命。室町時代には豊島氏を滅ぼした太田道灌が当地に出城を築城したことから、城山八幡と呼ばれた。
江戸時代になると、現社号が定着した。別当は現在も近隣にあり、赤紙仁王尊で有名な東覚寺。
赤紙仁王は江戸時代初期の寛永18年(1641年)から、当時江戸市中に流行った疫病を鎮めるため、宗海上人によって建てられたもの。
赤紙仁王尊はもとは当社参道に立っていたが、明治の神仏分離で東覚寺に移された。明治になり、当社は村社に列した。
大正2年(1913年)、当社境内に白鬚神社が移された。大正15年(1926年)には社務所が新築された。
昭和20年(1945年)4月の空襲により、社殿などを焼失、その後、昭和36年(1961年)8月に社殿が再建された。
平成2年(1990年)10月、即位の礼に反対する左翼過激派の連続放火テロにより、再び社殿を焼失した。
平成4年(1992年)に再建が始まり、翌平成5年(1993年)5月に遷座祭が行われた。例祭は8月15日前後の土・日曜日。
参道の中ほど、一の鳥居の手前には石橋が埋められている。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、保存のために移されたもの。
境内社に、山王神社・東灌森稲荷神社・水神社・稲荷神社・富士浅間神社・三峰神社がある。田端日枝神社などを兼務している。
富士浅間社と三峰社は田端富士三峯講が奉祀し、富士浅間社では毎年2月20日に「富士講の初拝み」として祭事が行われている。
【ご利益】
厄災除け、病気平癒、病魔退散、武運長久・勝運

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田端八幡神社(たばたはちまんじんじゃ)は、東京都北区田端にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を討伐、その帰路に当地の豪族豊島氏らとともに当地に立ち寄った。
その際、駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請、旧田端村の鎮守とした。これが当社の創始である。
創建の由緒は上田端八幡神社と同じ。御祭神は品陀和気命。室町時代には豊島氏を滅ぼした太田道灌が当地に出城を築城したことから、城山八幡と呼ばれた。
江戸時代になると、現社号が定着した。別当は現在も近隣にあり、赤紙仁王尊で有名な東覚寺。
赤紙仁王は江戸時代初期の寛永18年(1641年)から、当時江戸市中に流行った疫病を鎮めるため、宗海上人によって建てられたもの。
赤紙仁王尊はもとは当社参道に立っていたが、明治の神仏分離で東覚寺に移された。明治になり、当社は村社に列した。
大正2年(1913年)、当社境内に白鬚神社が移された。大正15年(1926年)には社務所が新築された。
昭和20年(1945年)4月の空襲により、社殿などを焼失、その後、昭和36年(1961年)8月に社殿が再建された。
平成2年(1990年)10月、即位の礼に反対する左翼過激派の連続放火テロにより、再び社殿を焼失した。
平成4年(1992年)に再建が始まり、翌平成5年(1993年)5月に遷座祭が行われた。例祭は8月15日前後の土・日曜日。
参道の中ほど、一の鳥居の手前には石橋が埋められている。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、保存のために移されたもの。
境内社に、山王神社・東灌森稲荷神社・水神社・稲荷神社・富士浅間神社・三峰神社がある。田端日枝神社などを兼務している。
富士浅間社と三峰社は田端富士三峯講が奉祀し、富士浅間社では毎年2月20日に「富士講の初拝み」として祭事が行われている。
【ご利益】
厄災除け、病気平癒、病魔退散、武運長久・勝運

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