平安初期の創建、源頼義・義家の父子が崇敬、江戸期社殿
子安神社 茨城県かすみがうら市東野寺239-1
[住所]茨城県かすみがうら市東野寺239-1
[電話]0299-23-1443

子安神社(こやすじんじゃ)は、茨城県かすみがうら市東野寺にある神社。椿の杜とも。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 茨城郡「夷針神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

平安時代初期の大同2年(807年)、駿河国富士浅間大神鹿島大神の御分霊を鎮齋したのが当社の始め。

御祭神は、木花開耶姫命武甕槌命。現在までに、当社殿は北向き。これは本社である鹿島神宮との関係や、当時の蝦夷政策との関連が指摘されている。

式内社名の夷針は、「いはり」「いしん」「いしむ」などと読まれるが、ある説では、「ひらはり」と読み、アラ→バラ→ビラ→ヒラと訛ったという。

その説では、夷針は新治のことで、新治という地に鎮座する当社が論社となった。

他の論社に、東茨城郡茨城町の式内同名神社、笠間市泉の愛宕神社の境内にある飯綱神社、石岡市小屋の足尾神社、かすみがうら市西野寺の胎安神社がある。

天喜4年(1056年)、源頼義・義家の父子が奥州討征の途次、再度にわたって参拝、奥羽鎮定と奥方の安産を祈願したと伝えられている。

康平6年(1063年)、父子が征奥の大任を終え、凱旋の折り、神護天祐があらたかだったため、当社に報賽、社殿修営祭祀料を寄進して、源家累代尊襲すべきものと定めた。

この際、源氏の紋である笹竜胆を使う事を許可したという。この父子による祈願は多くの神社で伝承が残るが、奥方の安産祈願というのは珍しいかもしれない。

棟札に残る造営の記録として、拝殿造立が江戸時代前期の寛文13年(1673年)とあり、本殿はそれ以前、江戸時代初期の建立と伝わり、以来建て替えられていないという。

例祭は9月3日で、当社講中の子安講の祈願祭が斎行される。6月30日が大祓祭で、夕刻には境内で芽の輪くぐり神事が行われる。

なお、当社は、式内社「羽梨山神社」の候補になる場合がある。式内社「羽梨山神社」は一般的に笠間市上郷の式内同名神社に比定されているが、異説がある。

『新国誌』園部状に、現在のつくば市小田にある小田城の小田政治が、小田から出て式内社と思われる「羽梨之宮」で軍勢を揃え、霞ケ浦を渡って小川に向かうとある。

小田から笠間市上郷を経由して霞ヶ浦を渡るのは、かなりの遠回りとなり無理があり、式内社「羽梨山神社」は、小田から霞ヶ浦の間、石岡市南部か、かすみがうら市にあるとするもの。

この場合、当社の他、胎安神社も候補となる。

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子安神社 茨城県かすみがうら市東野寺
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