日本武尊が報賽、飛鳥朝に勧請、歴代武将の崇敬、スギの御神木
羽梨山神社 茨城県笠間市上郷3161-1
[住所]茨城県笠間市上郷3161-1
[電話]0299-45-7119

羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)は、茨城県笠間市上郷にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 茨城郡「羽梨山神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。社伝によれば、日本武尊の東征の際、老翁・媼が山菓を献じ、兵卒の飢渇を癒した。

老翁・媼に名を問うと、磐筒男・磐筒女であると言った。日本武尊が凱旋の際、朝日丘の榊に羽々矢・果実を供して報賽した。

そのため、朝日丘を羽梨山と称するようになったという。羽梨山は、桜が多く、春になると、雪山のように真っ白になるところから花白山とも称された。

飛鳥時代の天智天皇3年(664年)、人々は花の美しさに感嘆し、山中に祠を建てて、木花咲耶姫命を勧請、花白山神社と称したという。

後に花志山から羽梨山に変化したとも。ただし、筑波山に葉が茂っているのに対し、当山には木がなかったため、羽梨山と呼ばれるようになったともされる。

もとは朝日丘とも呼ばれた、羽梨山、現在の標高553メートルの難台山の中腹に鎮座した。旧地には石碑があるというが、現在はゴルフ場になっているという。

平安時代初期の延暦22年(803年)、坂上田村麻呂が陸奥征討の大任遂行の報賽として、神殿二宇を建立、寄進したと伝わる。大同元年(806年)、勅額が下賜された。

『日本三代実録』に、羽梨神とあり、貞観12年(870年)8月28日には従五位下から従五位上に、仁和元年(885年)9月7日には正五位下を授けられた。

また、平将門の乱(938年-940年)の際、平貞盛が弓矢と砂金を献じ、将門征伐の武運を祈ったと伝えられる。

源頼義、義家の親子も、矛・太刀・鎧・神馬を奉納したと伝わる。現在、神馬の鐙のみが宝物として現存しているという。

鎌倉時代、宍戸家政(1188年-1213年)が当社を崇敬して社殿を造営、宍戸33ヶ郷の鎮守と定めた。

戦国時代の天文11年(1542年)、兵火に罹り、神殿が焼失、朝日丘より8町ほど下った現在地に遷座した。

現在地にはもともと熊野権現が鎮座しており、当社はこの熊野権現に合祀される形になったという。後に、主客が逆転したと考えられる。

江戸時代前期の寛文8年(1668年)、本殿と拝殿が造営あれた。元禄16年(1703年)には明神石鳥居が建立され、現存する。

江戸時代中期の延享4年(1747年)には社殿が新築、竣工した。これが現在の社殿である。

明治6年(1873年)、郷社に列した。例祭は11月第2土・日曜日。

御神木として、スギがある。町の名勝天然記念物に指定されている。目通り幹囲7.58メートル、樹高39.20メートルの大樹である。

地表より4メートルくらいまでは幹回り8メートルもの巨木で、そこから上は双幹に分かれる。さらにそれぞれが地表10メートルのところで枝分かれをする。

836坪の境内には 樹齢500年を超えるこの御神木をはじめ、樅・楠・椎・杉などの巨木が鬱蒼と神域を覆っている。

なお、現在、式内社「羽梨山神社」の論社と呼ばれるものは基本的にはないが、当社が「羽梨山神社」ではないとする説もある。

『新国誌』園部状に、現在のつくば市小田にある小田城の小田政治が、小田から出て羽梨之宮で軍勢を揃え、霞ケ浦を渡って小川に向かうとある。

小田から当社経由で霞ヶ浦を渡るのは、かなりの遠回りとなり無理があり、式内社「羽梨山神社」は、小田から霞ヶ浦の間、石岡市南部か、かすみがうら市にあるとする説。

そのため、胎安神社子安神社が式内社「羽梨山神社」の候補になる場合がある。

また、『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており、村上染谷の佐志能神社が式内社「羽梨山神社」に相当する、とも。

【ご利益】
縁結び・家内安全・徐災招福・五穀豊饒
羽梨山神社 茨城県笠間市上郷
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