『万葉集』の大和太の浜、源義経ゆかりの判官松と鮒子多家
[住所]大阪府大阪市西淀川区大和田5-20-20
[電話]06-6471-5353

大和田住吉神社(おおわだすみよしじんじゃ)は、大阪府大阪市西淀川区大和田にある神社。正式には住吉神社のみ。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

神崎川南岸、神崎大橋と中島大橋の間に鎮座する。隣接して、安養寺や、大和田北公園がある。『万葉集』に下記が掲載されている。
浜清み 浦うるはしみ 神代より 千舟の泊つる 大和太の浜
当社は、鎌倉時代末期の元応2年(1320年)9月19日の勧請と伝えられ、付近の漁民や舟行安全の守り神として信仰された。

ただし、それよりも前、源義経が源平の戦いの中の屋島の戦いで、住吉大明神に祈願した、とも伝えられる、判官松の跡がある。

また、社伝には、神功皇后が三韓征伐からの帰還の際、当地、大和田の浦に船を寄せたというものがある。先の『万葉集』にもつながってくる。

当社の創祀はもっと古い可能性がある。似たようなケースに、野里住吉神社がある。

当社の御祭神は、底筒男命中筒男命表筒男命住吉三神と気長足姫尊。いわゆる住吉四神。

判官松について、一説に、義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の煩事を援助したという。

喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。どうしたことかみるみるうちに生きかえり、松の姿に成長した。

義経はこの庄屋に「鮒子多(ふした)」の姓を与えたとも伝えられている。大和田墓地には鮒子多家の塚と墓石が現存している。

以来、この判官の松は年とともに天を突くほど成長し、沖を行き交う船人たちに航海の指針として親しまれた。

明治10年(1877年)、雷火のために不幸にも、この判官松は焼失。その跡に石碑が建てられている。

当社は明治5年(1872年)、村社に列し、明治43年(1910年)11月には神饌幣帛料供進社に指定され、12月に沢の宮の八幡神社を合祀した。

明治44年(1911年)7月7日、皇大神宮社を合祀した。この皇大神宮社は、江戸時代前期の元禄元年(1688年)に出来島開発の際に勧請されたもの。

例祭は10月16日。7月末、8月初めに夏祭りがあり、布団太鼓が担がれる。

境内社に、金比羅神社・稲荷神社・天満宮・蛭子社がある。

【ご利益】
海上・航海安全、交通安全、大漁満足・商売繁盛
大和田住吉神社 大阪府大阪市西淀川区大和田
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大和田住吉神社 大阪府大阪市西淀川区大和田の御朱印