古くよりの守田八幡、旧北高田村の産土神、本殿は旧善光寺年神堂
[住所]長野県長野市高田174
[電話]-
守田廼神社(もりたのじんじゃ)は、長野県長野市高田174にある神社。通称は守田神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 水内郡「守田神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
長野市街地東部の住宅街、国道19号の喧騒から一本奥へ入ったところにある。
創始は不詳だが、古くは守田八幡宮と称する旧北高田村の産土神だった。鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、源頼朝が神饌を供したという。
鎌倉時代後期の正安3年(1301年)、長野庄司・長沼五郎、島津元始などの人々が八幡堰を掘直しのため、八幡大神を善光寺御堂の裏、年神堂に遷した。
室町時代の長禄3年(1459年)、近隣から現在地に遷座した。
江戸時代前期の元禄12年(1699年)、神託に従い、善光寺年神堂から御神体を移した。「神体勧請社八幡宮」という額が伝わる。
江戸時代中期の宝暦8年(1756年)、神職・吉田家から守田神社の名で幣帛を受けた。
しかし、江戸時代後期の天保10年(1839年)、式内社論争を経て、社名に「迺(廼)」を加えることになった。当時の当社神主が幼く、対応ができなかったことによる、とも。
式内社「守田神社」の論社は他に、市内の七二会(古間)と穂保(長沼)に、式内同名神社がある。
本殿は、旧善光寺年神堂の建物。明治12年(1879年)に移築された。市の文化財に指定されている。
年神堂が神仏分離に伴い、健御名方富命彦神別神社(水内大社)として善光寺境内から城山に移転した際、建物のみ当社へ移築した。
鶴賀新地(旧長野遊郭)や権堂町に比較的近かったこともあり、玉垣に刻まれた寄進者は料亭や妓楼で占められている。
御祭神は現在までに、誉田別命・建御名方命・保食神。例祭は9月23日。
境内には先の本殿の他、拝殿・祝詞殿などがあり、境内社として、守田迺稲荷社(宇迦之御魂神・猿田彦神・大宮能売神)・交通安全守神(八衢彦神・八衢姫神)がある。
【ご利益】
厄災除け、安産、五穀豊穣、武運長久・勝運

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守田廼神社(もりたのじんじゃ)は、長野県長野市高田174にある神社。通称は守田神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 水内郡「守田神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
長野市街地東部の住宅街、国道19号の喧騒から一本奥へ入ったところにある。
創始は不詳だが、古くは守田八幡宮と称する旧北高田村の産土神だった。鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、源頼朝が神饌を供したという。
鎌倉時代後期の正安3年(1301年)、長野庄司・長沼五郎、島津元始などの人々が八幡堰を掘直しのため、八幡大神を善光寺御堂の裏、年神堂に遷した。
室町時代の長禄3年(1459年)、近隣から現在地に遷座した。
江戸時代前期の元禄12年(1699年)、神託に従い、善光寺年神堂から御神体を移した。「神体勧請社八幡宮」という額が伝わる。
江戸時代中期の宝暦8年(1756年)、神職・吉田家から守田神社の名で幣帛を受けた。
しかし、江戸時代後期の天保10年(1839年)、式内社論争を経て、社名に「迺(廼)」を加えることになった。当時の当社神主が幼く、対応ができなかったことによる、とも。
式内社「守田神社」の論社は他に、市内の七二会(古間)と穂保(長沼)に、式内同名神社がある。
本殿は、旧善光寺年神堂の建物。明治12年(1879年)に移築された。市の文化財に指定されている。
年神堂が神仏分離に伴い、健御名方富命彦神別神社(水内大社)として善光寺境内から城山に移転した際、建物のみ当社へ移築した。
鶴賀新地(旧長野遊郭)や権堂町に比較的近かったこともあり、玉垣に刻まれた寄進者は料亭や妓楼で占められている。
御祭神は現在までに、誉田別命・建御名方命・保食神。例祭は9月23日。
境内には先の本殿の他、拝殿・祝詞殿などがあり、境内社として、守田迺稲荷社(宇迦之御魂神・猿田彦神・大宮能売神)・交通安全守神(八衢彦神・八衢姫神)がある。
【ご利益】
厄災除け、安産、五穀豊穣、武運長久・勝運

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