奈良初期に稲荷を勧請、中宮と奥宮、7年目ごとの御柱祭
[住所]長野県上田市武石小沢根230
[電話]0268-85-2163
子檀嶺神社(こまみねじんじゃ)は、長野県上田市武石小沢根にある神社。しなの鉄道線の大屋駅の南西約12キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 小県郡「子檀嶺神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によれば、奈良時代初期の和銅5年(712年)、山城国紀伊郡稲荷山を勧請して創立。御祭神は宇賀御魂命。
平安時代初期の大同元年(806年)、諏訪社(健御名方命・八坂刀売命)を合祀した。往古から三神を併せて子檀嶺神社嶽石宮大神と称した。
寛治元年(1087年)、源義光が本殿を再建し、元暦元年(1184年)には当郷の豪族である武石三郎平胤が本殿と拝殿を修理した。
当社の奥宮は子檀倉嶽の絶頂近くに鎮座する。小沢根の谷を南西方面に辿っていくと別荘地があり、その別荘地の上あたりが子檀倉嶽とされる。
また、中宮として余里に諏訪社、現在の駒形神社がある。駒形神社の境内には、幹囲4.3メートル、樹高17メートルの栃の木があり、市の天然記念物に指定されている。
戦国時代の天文4年(1535年)、里宮が依田川の洪水で流出し、地頭大井大和守源信廣によって、子檀倉嶽の麓に遷座した。
古社地は五日町という場所だったため、五日町明神とも称された。一説には、御祭神を木股神とすることからか、通称は「木の宮」。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)9月28日、領主の真田氏は社領として18石あまりを寄進、以降領主が変わるごとに社領が寄付された。
江戸時代中期の延享3年(1746年)、烈風のため社殿が大破損、翌延享4年(1747年)、松平忠愛が巨木を寄進した。
例祭は4月第1日曜日。諏訪社としても色濃く、また、古くから諏訪大社下社(春宮・秋宮)とも関係があったためか、7年目ごとの御柱祭行事が伝わる。
最も古い記録は、天明2年(1782年)。武石八ヶ村の御柱としての祭事だったが、御ねり行列のみは宮もとである小沢根・余里の区民によって伝承されてきた。
しかしこれも昭和43年(1968年)より、武石村全村民で執行されることになった。現在は村の無形文化財に指定されている。
御柱祭行事は注連張式に始まって斧入式・山出祭・里曳・本曳・御柱樹てに終わる一連の行事。本曳は本祭当日に行われ、御ねり行列が奉納される。
寅年・申年の4月に執行され、注連張式は前年の春に、斧入式・山出祭・里曳はその秋に行われる。御柱の丈は寅年が偶数尺・申年は奇数尺となっている。
御ねり行列は百万石の大名行列を模したものとされ、行列中に「おかめ」「ひょっとこ」(瓢振り)の余興が入っているのが特徴。
なお、式内社「子檀嶺神社」の論社は他に、青木村に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、商売繁盛、夫婦和合、子宝・安産
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子檀嶺神社(こまみねじんじゃ)は、長野県上田市武石小沢根にある神社。しなの鉄道線の大屋駅の南西約12キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 小県郡「子檀嶺神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によれば、奈良時代初期の和銅5年(712年)、山城国紀伊郡稲荷山を勧請して創立。御祭神は宇賀御魂命。
平安時代初期の大同元年(806年)、諏訪社(健御名方命・八坂刀売命)を合祀した。往古から三神を併せて子檀嶺神社嶽石宮大神と称した。
寛治元年(1087年)、源義光が本殿を再建し、元暦元年(1184年)には当郷の豪族である武石三郎平胤が本殿と拝殿を修理した。
当社の奥宮は子檀倉嶽の絶頂近くに鎮座する。小沢根の谷を南西方面に辿っていくと別荘地があり、その別荘地の上あたりが子檀倉嶽とされる。
また、中宮として余里に諏訪社、現在の駒形神社がある。駒形神社の境内には、幹囲4.3メートル、樹高17メートルの栃の木があり、市の天然記念物に指定されている。
戦国時代の天文4年(1535年)、里宮が依田川の洪水で流出し、地頭大井大和守源信廣によって、子檀倉嶽の麓に遷座した。
古社地は五日町という場所だったため、五日町明神とも称された。一説には、御祭神を木股神とすることからか、通称は「木の宮」。
江戸時代初期の慶長12年(1607年)9月28日、領主の真田氏は社領として18石あまりを寄進、以降領主が変わるごとに社領が寄付された。
江戸時代中期の延享3年(1746年)、烈風のため社殿が大破損、翌延享4年(1747年)、松平忠愛が巨木を寄進した。
例祭は4月第1日曜日。諏訪社としても色濃く、また、古くから諏訪大社下社(春宮・秋宮)とも関係があったためか、7年目ごとの御柱祭行事が伝わる。
最も古い記録は、天明2年(1782年)。武石八ヶ村の御柱としての祭事だったが、御ねり行列のみは宮もとである小沢根・余里の区民によって伝承されてきた。
しかしこれも昭和43年(1968年)より、武石村全村民で執行されることになった。現在は村の無形文化財に指定されている。
御柱祭行事は注連張式に始まって斧入式・山出祭・里曳・本曳・御柱樹てに終わる一連の行事。本曳は本祭当日に行われ、御ねり行列が奉納される。
寅年・申年の4月に執行され、注連張式は前年の春に、斧入式・山出祭・里曳はその秋に行われる。御柱の丈は寅年が偶数尺・申年は奇数尺となっている。
御ねり行列は百万石の大名行列を模したものとされ、行列中に「おかめ」「ひょっとこ」(瓢振り)の余興が入っているのが特徴。
なお、式内社「子檀嶺神社」の論社は他に、青木村に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、商売繁盛、夫婦和合、子宝・安産
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