末広社と竹長稲荷社が合併、御札「上の字様」、9月例祭、11月酉の市
[住所]東京都港区麻布十番1-4-6
[電話]03-3583-6250
十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)は、東京都港区麻布十番にある神社。麻布十番駅の至近に鎮座する。参拝すれば、御朱印を頂ける。
港七福神めぐりの宝船で、その宝船などをあしらった、オリジナルの御朱印帳がある。
旧坂下町鎮座の末広神社と旧永坂町鎮座の竹長稲荷神社を合併した神社。両社は、昭和20年(1945年)4月15日に戦災に遭って焼失。
昭和25年(1950年)6月、復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。その後両社は合併して現社号に改称した。
末広神社(すえひろじんじゃ)は、江戸時代初期の慶長年間(1596年-1615年)に創建された。
江戸時代前期の元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していたが、元禄6年(1693年)、永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座した。
往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形をしていたことから「末広の柳」と呼ばれた。
そのことから、末広稲荷と称されたが、明治20年(1887年)4月に末広神社に改称した。
末広神社では、「上の字様」という御札が授与されていた。これは、江戸時代後期の文政4年(1821年)7月2日に始まった大火に基づくもの。
当地一帯はほとんど焼けたものの、なぜか備中成羽の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れた。
これは邸内の池の大かえるが、水を吹きかけて猛火を退けたからであると言われ、山崎家に御札を求める人々があとを断たなくなった。
そこで山崎家では「上」(じょう)という一字が書かれた御札を万人に授けるようになった。この御札が「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めた。
戦後になり、この御札の授与はなくなったが、復活を望む声が多くなり、昭和50年(1975年)8月から「かえるのお守り」として復活、かえるの石像も奉納された。
竹長稲荷神社(たけちょういなりじんじゃ)の創建は不詳。一説には奈良時代初期の和銅5年(712年)とも、平安時代是初期の弘仁13年(822年)とも。
後者の場合、慈覚大師の八咫の神鏡により、武蔵国豊島群竹千代丘、現在の鳥居坂上に稲荷大神が勧請されたとも。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 荏原郡「薭田神社」に比定される式内社(小社)とされる場合があるという。
確かに、「薭田神社」は論社も多く、比定しきれていない式内社の一つ。ただし、一般的にこの竹長稲荷神社を比定する説は有力ではない。
論社に、大田区蒲田の式内同名神社、東六郷の六郷神社、南久が原の鵜ノ木八幡神社、久が原の八幡神社、港区三田の御田八幡神社がある。
鎌倉時代の弘安2年(1279年)、鳥羽氏が社殿を再建、江戸時代初期の寛永元年(1624年)3月に永坂町に遷座した。
当社の御祭神は、倉稲魂命、日本武尊、市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神。平成9年(1997年)3月29日、現社殿に建て替えられた。
例祭は9月。氏子の各町内会では御神酒所が設けられ、町会ごとに神輿が練り歩く。数年に一度、神社の宮神輿も渡御する。
毎年11月の酉の日に、酉の市祭が斎行され、縁起物の熊手守・福財布が終日授与される。
【ご利益】
商売繁盛、武運長久・勝運、スポーツ・技芸上達、美容(公式HP)
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十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)は、東京都港区麻布十番にある神社。麻布十番駅の至近に鎮座する。参拝すれば、御朱印を頂ける。
港七福神めぐりの宝船で、その宝船などをあしらった、オリジナルの御朱印帳がある。
旧坂下町鎮座の末広神社と旧永坂町鎮座の竹長稲荷神社を合併した神社。両社は、昭和20年(1945年)4月15日に戦災に遭って焼失。
昭和25年(1950年)6月、復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。その後両社は合併して現社号に改称した。
末広神社(すえひろじんじゃ)は、江戸時代初期の慶長年間(1596年-1615年)に創建された。
江戸時代前期の元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していたが、元禄6年(1693年)、永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座した。
往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形をしていたことから「末広の柳」と呼ばれた。
そのことから、末広稲荷と称されたが、明治20年(1887年)4月に末広神社に改称した。
末広神社では、「上の字様」という御札が授与されていた。これは、江戸時代後期の文政4年(1821年)7月2日に始まった大火に基づくもの。
当地一帯はほとんど焼けたものの、なぜか備中成羽の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れた。
これは邸内の池の大かえるが、水を吹きかけて猛火を退けたからであると言われ、山崎家に御札を求める人々があとを断たなくなった。
そこで山崎家では「上」(じょう)という一字が書かれた御札を万人に授けるようになった。この御札が「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めた。
戦後になり、この御札の授与はなくなったが、復活を望む声が多くなり、昭和50年(1975年)8月から「かえるのお守り」として復活、かえるの石像も奉納された。
竹長稲荷神社(たけちょういなりじんじゃ)の創建は不詳。一説には奈良時代初期の和銅5年(712年)とも、平安時代是初期の弘仁13年(822年)とも。
後者の場合、慈覚大師の八咫の神鏡により、武蔵国豊島群竹千代丘、現在の鳥居坂上に稲荷大神が勧請されたとも。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 荏原郡「薭田神社」に比定される式内社(小社)とされる場合があるという。
確かに、「薭田神社」は論社も多く、比定しきれていない式内社の一つ。ただし、一般的にこの竹長稲荷神社を比定する説は有力ではない。
論社に、大田区蒲田の式内同名神社、東六郷の六郷神社、南久が原の鵜ノ木八幡神社、久が原の八幡神社、港区三田の御田八幡神社がある。
鎌倉時代の弘安2年(1279年)、鳥羽氏が社殿を再建、江戸時代初期の寛永元年(1624年)3月に永坂町に遷座した。
当社の御祭神は、倉稲魂命、日本武尊、市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神。平成9年(1997年)3月29日、現社殿に建て替えられた。
例祭は9月。氏子の各町内会では御神酒所が設けられ、町会ごとに神輿が練り歩く。数年に一度、神社の宮神輿も渡御する。
毎年11月の酉の日に、酉の市祭が斎行され、縁起物の熊手守・福財布が終日授与される。
【ご利益】
商売繁盛、武運長久・勝運、スポーツ・技芸上達、美容(公式HP)
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