景行期には存在、若狭地方最大の祭典・七年祭、伝説の大岩発見
[住所]福井県大飯郡高浜町宮崎59-4
[電話]0770-72-0041

佐伎治神社(さきちじんじゃ)は、福井県大飯郡高浜町宮崎にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 北陸道神 若狭国 大飯郡「佐伎治神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

中世に社記を焼失したため、創祀・創建の年代や由緒は不詳。しかし、第12代景行天皇が皇子の磐鹿六雁命に若狭国を授けた際には存在していたという。

御祭神は、素盞嗚尊大己貴命稻田姫命。平安時代末期の長寛年間(1163年-1165年)、神殿の改造の記録が残る。

戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、高浜の領主が社領田として、7町7反歩を寄進した。

往古は、現在地から東北へ1.5キロほど、薗部村という深田の中、園池林という地に鎮座とも、現在の城山の地に鎮座とも伝わる。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、武田家臣である逸見昌経が現在地に潜在したと伝わる。

その後、木下利房が高浜の領主になると、当社を大いに崇敬し、社殿造営などを行った。

堀尾吉晴もやはり崇敬し、造営を強く願ったが、社殿に特段破損がなかったため、鐘楼を建立したという。

江戸時代になり、その初期の元和3年(1617年)、卜部兼英の文に「正一位碎導大明神」とあり、これが当社のことともされる。

正一位碎導大明神の鳥居扁額、正保3年(1647年)の酒井忠勝が造営した際の棟札、安永6年(1777年)の造営に際して、酒井忠治が白銀1枚を寄進した棟札が現存する。

往時は社域に真言宗の龍蔵院があり、その社僧と、別に社人と称する者によって奉仕されていたという。

明治になり、明治8年(1875年)4月、県社に列し、明治41年(1908年)4月、神饌幣帛供進社に指定された。

平成28年(2016年)、山林の地名自体が大岩ともいわれ、言い伝えられてはいたが、所在不明の大岩が、工事によって偶然発見された。

大岩は、本殿の裏の小山を約120メートル登ったところにある。高さ14メートル、周囲40メートル。

当地への遷座は戦国時代のため、当社の草創とは結び付かない可能性はあるが、この大岩を磐座とした、現在地が古くからの聖地だった可能性がある。

発見後、氏子総代らが2ヶ月かけて大岩までの道を整備し、一般の人でも見られるようにした。パワースポットとして、多くの人に親しまれることが期待されている。

神紋は橘、例祭は10月12日・13日。巳年と亥年の6月卯の日より酉の日まで式年神幸祭、いわゆる七年祭がある。

県の無形民俗文化財に指定され、この七年祭の期間中、町は祭り一色になる。

白装束の男衆が御輿を担いで町内を練り歩き、太刀振り、お田植、足洗い神事、神楽、曳山などの芸能が繰り広げられる若狭地方最大の祭り。

干ばつの際には請雨祭が行われ、25年ごとに鳥居洗式がある。平安時代末期から鎌倉時代初期の作と推定される雨乞鐘とも呼ばれる和鐘がある。若狭地方では最古の梵鐘。

境内社に、日吉神社・御霊神社・廣峯神社・稲荷神社がある。

この日吉神社には、明治44年(1911年)5月、三明字東三明の無格社天満神社、宮崎字東宮崎の無格社山神神社、立石字清水の無格社赤松神社を合祀した。

また大正8年(1919年)、事代字三ノ丸の無格社大山神社も合祀した。この中の赤松神社は、『若狭國神階帳』記載の「従三位赤松明神」とされる。

また稲荷神社は、明治44年6月、産霊神社・松尾神社・木船神社・若宮神社・伊射奈伎神社・大神神社・水無月神社の境内7社を合祀した。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、夫婦和合、家内安全
佐伎治神社 福井県大飯郡高浜町宮崎
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佐伎治神社 福井県大飯郡高浜町宮崎の御朱印