綿向山に出雲祖神、5月に日野祭、『古事記』記載の置目老媼
[住所]滋賀県蒲生郡日野町村井705
[電話]0748-52-0131

馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「馬見岡神社二座(近江国・蒲生郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

当社の起こりは、初代神武天皇の御代、近江日野の東方に気高く聳える標高1110メートルの綿向山に出雲国開拓の祖神を迎え祀ったのが始まり。

御祭神は、天穂日命天夷烏命・武三熊大人命。武三熊大人命は『日本書紀』にのみ記載され、一説に天夷烏命と同神とも。であれば、『延喜式神名帳』の二座に照応する。

その後、第29代欽明天皇6年(545年)、その頂上に祠が建てられた。現在も奥之宮として大嵩神社が鎮座する。

この大嵩神社では、古来より、20年ごとの式年遷宮が行われており、これは現在も続いている。

平安時代初期の延暦15年(796年)、里宮として現在地に遷座した。蒲生上郡の総社、日野の大宮、湖東の大社、当地の産土神として崇敬された。

昔、山頂から2羽の雁が飛んできて消えたのを見て、村人たちが神が降りてきたと思い、山麓に社を建てた、とも。当社の神紋は、これにちなみ「二羽雁」。

平安時代末期の嘉応2年(1170年)、現在に連なる秋季例大祭、日野祭が始まったという。

中世、鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、この地の領主であった蒲生氏一族は当社を氏神として位置付け、庇護した。

現在も、本殿右前には、六角形で火袋(かたい)に散蓮華(さんれんげ)を刻む鎌倉時代の石灯籠がある。国の重要美術品に指定されている。

天正18年(1590年)、会津黒川城主になった蒲生氏郷は、当社参道の「若松の杜」にちなみ、会津若松と改称したと伝わる。

氏郷の誕生に際して、当社祭礼は特に盛大に行われ、その様子を文化9年(1812年)に描かれた祭礼大絵馬が伝わる。

江戸時代になると、全国に名を馳せた近江商人、その中の日野商人たちの財力に支えられ、出世開運の神として崇敬された。

現在も境内に、立派な石灯籠や石橋があり、「千両松」と書かれた石碑があって、1本の松が植えられている。

この松は、江戸時代に遠方で商売して儲けた辻惣兵衛という人が、大金を日野に持ち帰るために、植木鉢の中に小判を隠して、その上に松の木を植えた。

その結果、無事に日野まで帰れたので、そのお礼に、この境内に松を植えたといわれているもの。

本殿は、江戸時代中期の宝永4年(1707年)の再建。棟札に地元日野の大工、辻杢兵衛藤原安次・嶋村松兵衛藤原重次とある。県有形文化財に指定されている。

また、神楽殿は天明4年(1784年)、拝殿は江戸時代後期の享和3年(1803年)の再建、絵馬殿は文化7年(1810年)の建築。

明治9年(1876年)。郷社に列し、明治42年(1909年)には県社に昇格した。

例祭は、5月2日-4日で春季例大祭、日野祭。3人の神稚児や三社の神輿、16基の曳山車を中心に、古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる。県の無形民俗文化財に指定されている。

10月1日が秋季例大祭で、郷社祭。1月には、5日にカンジョウ縄吊り、14日にどんど焼き、24日に御田植祭がある。

鎮座している村井の森は、置目の森とも称し、本殿脇の村井御前社に地主神として、『古事記』に印象的に登場する、置目老媼命が祀られている。

その御前桜こそが、山頂から飛んできた2羽の雁が消えた場所、つまり当社草創ゆかりだという。

他の境内社に、八幡宮、榊御前社、社日社、猿田彦之神、安平稲荷神社、富士浅間神社、竃之社、稲置三麿神社、玉椿神社、池之社・出雲神社、琴平神社、神明神社、天満宮(北野神社)、玉影神社(祖霊社)、蛭子神社、大将軍神社がある。

なお、式内社「馬見岡神社」の論社は他に、近江八幡市馬渕町東山に式内同名神社がある。

【ご利益】
家内安全、地域安全、出世開運、一族・子孫繁栄(公式HP
馬見岡綿向神社 滋賀県蒲生郡日野町村井
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馬見岡綿向神社 滋賀県蒲生郡日野町村井の御朱印