継体天皇の勧請、実盛の兜と7月にまつり、初詣はかぶと鍋
[住所]石川県小松市上本折町72
[電話]0761-22-4089

多太神社(ただじんじゃ)は、石川県小松市上本折町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「多太神社(加賀国・能美郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

社伝によれば、第25代武烈天皇5年6月、後の第26代継体天皇である男大跡王子によって勧請されたという。

御祭神は、衝桙等乎而留比古命。『出雲国風土記』記載の、秋鹿郡多太郷の地名起源説話に登場する神。

以前は、大田田根子命が御祭神と考えられていた。摂津国河辺郡大和国葛上郡にも、大田田根子命と関連する同名の式内社がある。

平安時代の寛弘5年(1008年)、花山天皇の遺勅により、舟津松ケ中原にあった八幡宮(応神天皇神功皇后・比咩神)を合祀し、多太八幡宮と称したという。

当社には源平時代の武将、斉藤実盛の着用していた兜が現存する。国の重要文化財。当社は、兜の八幡様と呼ばれ、参道にも「八幡様の兜」の像がある。

実盛は、寿永2年(1183年)、加賀の篠原の地で、木曾義仲(源義仲)に討たれた。享年73歳。

初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え、武蔵国長井庄の別当として居住したという。

争乱の中、幼少の義仲の命を救ったこともあった。討ち取った後、義仲が、命の恩人だったと知り、当社に兜を奉納した。

この話は『平家物語』巻第七「実盛」に語られている。また、室町時代の応永21年(1414年)、時衆第14世大空上人が実盛の兜を供養した。

以来歴代の遊行上人が代々参詣するしきたりが、今もなお5月中旬日曜日に「遊行祭」として続いている。

江戸時代前期の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が奥の細道の途次、旧暦7月24日に北陸路を金沢から小松へ入り、当地に宿泊して、句会を開催した。

当社に詣でて、実盛の兜や袖を拝観し、義仲と実盛の数奇な巡りあわせに思いを馳せ、下記の一句を詠んだ。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
また、供の二人も、下記のように詠んだ。
曽良
幾秋か 甲のきえぬ 鬢の霜

北技
くさずりの うら珍しや 秋の風
江戸時代初期の慶長5年(1600年)、小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出し、その三男の右京に当社家を守らせ、舟津村領で5丁8反243歩を寄進した。

加賀藩3代藩主前田利常は寛永17年(1640年)に社地を寄進し、慶安2年(1649年)の制札には能美郡全体の総社に制定した。

寛文7年(1667年)、西宮社(蛭児命軻遇突智神)を配祀した。
 
明治15年(1882年)、県社に列した。大正元年(1912年)に本殿後方から発掘された8千5百余枚に及ぶ古銭は、室町中期の15世紀初めに埋納されたもの。

境内社に、松尾神社・福久宮稲荷神社・金刀比羅社・神明社・春日社などがある。

現在までに、大山咋命素盞嗚尊・継体天皇・豊臣秀吉・菅原道真保食神稲倉魂神猿田彦命大宮女命・斉藤実盛・水上大神を配祀する。

7月下旬に「かぶとまつり」が催され、詩吟や輪踊り「かぶとおんど」が行われ、屋台も出て賑わう。謡曲「実盛」の上演もあり、県内外から謡曲ファンが訪れる。

蟇目(ひきめ)の神事では、昔は矢を米俵にあてていたが、現在は餅まきをして当たりの入った餅を手にした人に米やスイカなどが与えられる。

大晦日の除夜の鐘の鳴る頃から、境内は初詣に訪れる参拝客で溢れる。「かぶと鍋」と呼ばれるとん汁や海鮮鍋の振る舞いもあり、多くの人で賑わう。

なお、当社は市内の蓮代寺町の日吉神社、矢崎町と大嶺中町の諏訪神社、本江町・波佐羅町・南浅井町・江指町の八幡神社、北浅井神社、不動島町の八坂神社、佐谷町と瀬領町の磯前神社、長谷町の菅原神社、池城町・打木町・赤瀬町・上り江町・松岡町・三谷町・向本折町・観音下町の白山神社、大領神社、千木野神社、西俣町の熊野神社、今江春日神社、古府町の石部神社幡生神社、岩上神社、沖太郎丸神社を兼務している。

【ご利益】
諸願成就、武運長久・勝運
多太神社 石川県小松市上本折町
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多太神社 石川県小松市上本折町の御朱印