大毘古命が稲穂の実りを祈願した穂の宮・穂宮、手洗鉢の伝承
[住所]石川県加賀市弓波町イ-1
[電話]0761-76-0349 - 服部神社
忌浪神社(いみなみじんじゃ)は、石川県加賀市弓波町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「忌浪神社(加賀国・江沼郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
社伝によれば、第10代崇神天皇の御代、大毘古命が、高志の国に至った時、作物がとれず不作が続いたため、当地に倉稻魂命を祀って豊作を祈願したのが創祀。
通称は、穂の宮、穂宮。由来は、稲穂の実りを祈願したことによる。また、当地を開拓した初穂を、当社へ供えたからだともいう。
一説には、当社の近くに船で来たので、帆の宮だとも。社号の「波(浪)を忌む」にもつながる。
奈良時代の天平神護元年(765年)、社殿が造営された。平安時代の嘉祥2年(849年)に従五位下、貞観元年(859年)に従五位上と神階が与えられた。
天安2年(858年)、天徳3年(959年)にも社殿造営の記録が残る。
鎌倉時代初期、寿永2年(1183年)、平家の軍の兵火にかかり、社殿や宝物が焼失した。寿永4年(1185年)に再建されたという。
当社東方300メートルに寺田という地があり、そこに宝塔石とよばれていたものが、当社の手洗鉢になっている。
これは、奈良時代より栄えた大寺の五重の塔の心礎で、この大寺はその後変遷して、松勝光寺、加賀打越勝光寺として現存する。
昔、この心礎石を運ぼうとして動かしたが、この地まで来て、押せど引けども動かなくなり、当社の手洗鉢になったという由来がある。
明治5年(1872年)11月、郷社に列した。明治30年(1997年)1月9日に県社に昇格、明治41年(1908年)4月8日には神饌幣帛料供進神社に指定された。
例祭は8月12日。現在は、服部神社が管理を行っている。
【ご利益】
五穀豊穣、事業成功、地域安全、家内安全
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[電話]0761-76-0349 - 服部神社
忌浪神社(いみなみじんじゃ)は、石川県加賀市弓波町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「忌浪神社(加賀国・江沼郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
社伝によれば、第10代崇神天皇の御代、大毘古命が、高志の国に至った時、作物がとれず不作が続いたため、当地に倉稻魂命を祀って豊作を祈願したのが創祀。
通称は、穂の宮、穂宮。由来は、稲穂の実りを祈願したことによる。また、当地を開拓した初穂を、当社へ供えたからだともいう。
一説には、当社の近くに船で来たので、帆の宮だとも。社号の「波(浪)を忌む」にもつながる。
奈良時代の天平神護元年(765年)、社殿が造営された。平安時代の嘉祥2年(849年)に従五位下、貞観元年(859年)に従五位上と神階が与えられた。
天安2年(858年)、天徳3年(959年)にも社殿造営の記録が残る。
鎌倉時代初期、寿永2年(1183年)、平家の軍の兵火にかかり、社殿や宝物が焼失した。寿永4年(1185年)に再建されたという。
当社東方300メートルに寺田という地があり、そこに宝塔石とよばれていたものが、当社の手洗鉢になっている。
これは、奈良時代より栄えた大寺の五重の塔の心礎で、この大寺はその後変遷して、松勝光寺、加賀打越勝光寺として現存する。
昔、この心礎石を運ぼうとして動かしたが、この地まで来て、押せど引けども動かなくなり、当社の手洗鉢になったという由来がある。
明治5年(1872年)11月、郷社に列した。明治30年(1997年)1月9日に県社に昇格、明治41年(1908年)4月8日には神饌幣帛料供進神社に指定された。
例祭は8月12日。現在は、服部神社が管理を行っている。
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